「首都」を目指した?南林間駅が秘めた壮大な野望 「田園調布以上」を狙った住宅地、撮影所も誘致
文化人が集まり出した1930年代から南林間駅の周辺はにわかに騒がしくなり、戦時色を濃くしていく。まず陸軍が相模原近隣に多くの施設を建設。1940年代からは、海軍が厚木周辺に関連施設を次々と建設した。
周辺に陸海両軍の軍事施設が集積したことを機に、小田急は売れ残っていた林間都市の一部を箱根土地(現・プリンスホテル)へと譲渡。箱根土地は、さらに土地を陸軍へと転売した。すでに利光の描いた壮大な林間都市は実現不能の都市計画になっていたが、土地が軍部に渡ったことで林間都市構想は完全に幕を下ろすことになった。
だが、皮肉にも軍部の影響を受けて南林間駅の利用者は年を経るごとに増加していく。南林間駅の1930年における1日の平均乗降客数は92人だったが、1935年には221人、1940年には943人、そして駅名から都市をはずした1941年には1009人と大台を突破。1943年には1319人まで増加した。
終戦後、南林間駅に大きな変化は起きなかったが、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、アメリカ管理下に置かれていた厚木基地の周辺は一気ににぎやかになった。アメリカ兵を相手にした商売が基地周辺では盛んになり、その波は南林間駅にも及び、駅前には英文表記の看板を掲出した商店が並んだ。
南林間駅は戦前に陸軍・海軍による影響を受け、戦後はアメリカ軍の影響を受けたものの、一貫して閑静な住宅地だった。しかし、戦災復興が一段落した頃から南林間駅には変化の波が押し寄せてくる。
東急の乗り入れで「都市」に
その発端は、1953年に東急の総帥・五島慶太が城西南地区開発趣意書を発表したことだった。これは後年に内容を変更し、東京都町田市や神奈川県川崎市・横浜市一帯に多摩田園都市を建設するというものだった。
東急は多摩田園都市を進めるにあたり、小田急の林間都市にも進出する予定を立てていた。東急は中央林間駅に向けて田園都市線を延伸させていくが、この過程で小田急が東急に対して強い抵抗を見せた。そうした小田急の反発は実らず、東急は1984年に田園都市線を中央林間駅まで到達させている。
30年以上もの歳月を費やして東急は中央林間駅まで進出し、それを契機に林間都市は発展を遂げることになった。東急の進出には抵抗した小田急だったが、進出後に林間都市が都市化したことは、小田急にとっても嬉しい誤算だった。
こうした林間都市の発展を概観し、小田急は社史に「林間3駅は林間の時代に都市であり、都市の時代に林間を名乗る」と皮肉を交えて記述している。しかし、利光が新しい首都にするとまで意気込んでいた壮大な林間都市の夢の跡は見られない。
高度経済成長やバブル期に都市化の波を受けてはいるものの、南林間駅は閑静な郊外住宅地の佇まいを残したままになっている。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら