「首都」を目指した?南林間駅が秘めた壮大な野望 「田園調布以上」を狙った住宅地、撮影所も誘致
関東大震災により、東京都心部の家屋は大半が損壊。その一方で、郊外の被害は軽微だった。とくに、渋沢栄一が理想の田園都市を目指して造成された田園調布はほとんど被害が見られなかった。そうした安全面が重視されたこともあって、大正末期から昭和初期にかけて富裕層が郊外へ住居を移すことが増えていた。
南林間都市駅周辺に造成された住宅地も富裕層をターゲットに据え、都心部から多くの移住者を見込んだ。しかし、小田急のターミナルである新宿駅からの所要時間は約1時間。当時の感覚では遠すぎるために住宅地は思うように売れず、分譲開始から10年が経過した1939年になっても分譲予定地の約76.8%にあたる約49万9200坪しか販売されなかった。
小田急は林間都市の残存土地を東横電鉄(現・東急)と提携することで売り切ろうとした。後述するが、こうした経緯が後年に東急が林間都市へと進出する布石になっている。
住宅地の販売不振もさることながら、林間都市を危機に追い込んだのは1938年に公布された電力管理法も遠因になっている。同法は電力事業を国の統制下に置く内容で、これにより小田急の親会社だった鬼怒川水力電気は電力事業の廃止に追い込まれた。
鬼怒川水力電気は1941年に電力事業から完全に撤退し、鉄道事業に専念することを表明。そうしたことから、子会社の小田原急行鉄道が親会社の鬼怒川水力電気を吸収する形で小田急電鉄が誕生した。それ以前から世間は同社を“小田急”と通称していたが、ここで名実ともに小田急という鉄道会社が誕生する。
「都市」ではなく文化人の街に
こうして小田急は1941年に林間都市の開発コンセプトを完全に転換。都市の建設を諦め、3駅すべての駅名から“都市”が取り払われ、南林間都市駅は南林間駅と改称した。
住宅地を築くという点では失敗に終わった小田急の林間都市計画だが、大和学園女学校が開校したことで、それまで農村然としていたエリアに新たな都市文化がもたらされている。1930年、歌人の吉井勇が静かな住環境を求めて南林間駅の近隣に移住。吉井の祖父は日本鉄道の社長を務めた吉井友実だが、吉井勇本人は特に鉄道分野での活躍はなく、詩人仲間の北原白秋とパンの会を立ち上げるなど文学分野で活躍した。ちなみに、南林間に引っ越してきた吉井は伊東とも交友を持ち、請われて大和学園の校歌を作詞している。
吉井に続き、1931年には俳文学者の高木蒼梧が南林間へと移住してきた。高木は81歳で没するまで南林間に居住し、吉井とも交流した。さらに、1940年には出版社の筑摩書房を立ち上げた文芸評論家の唐木順三が南林間へと移住している。こうした文化人が集まったことで、南林間駅は利光の想定とは異なる街へと変貌を遂げていった。
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