「首都」を目指した?南林間駅が秘めた壮大な野望 「田園調布以上」を狙った住宅地、撮影所も誘致

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そこまで道路整備にこだわった南林間都市駅の西口には3000坪ずつの街区が整備され、そこから一軒あたり100坪から500坪前後の邸宅が立ち並ぶことを予定していた。当時においても、500坪の敷地は豪邸といえる規模で、小田急は林間都市を高級住宅街にすることを強く意識していた。

南林間 やまと根岸通り
南林間駅西口から延びるやまと根岸通り。2010年にノーベル化学賞を受賞した根岸英一氏が同地で幼少期を過ごしたことから命名された(筆者撮影)

とはいえ、そんな簡単に豪邸の購入希望者は現れない。そこで、小田急は下見客に対して運賃を無料にし、さらに購入者には3カ月間の無料パスを進呈するという破格のサービスをしている。

こうして林間都市が体裁を少しずつ整えていくと、小田急は住宅造成を駅西口から東口へと広げていき、さらに中央林間都市駅の周辺も整備を始めた。利光は南林間都市駅の西側と中央林間都市駅の中間地点に公園をはじめゴルフ場・野球場・ラグビー場・テニスコートといったスポーツ施設を集中的に配置することを計画。こうして南林間都市駅から中央林間都市駅までの一帯は、スポーツ都市として売り出されることになる。

これらのスポーツ施設は、後に衆議院議員となるジャーナリストの鷲沢与四二が1929年に設立したスポーツ都市協会が管理を担当した。このほかにも、小田急と大日本相撲協会(現・日本相撲協会)が土俵場と校舎を完備した相撲専修学校の開校を目指す動きもあった。1931年には学校の前段階ともいえる養成所が開所し、50人前後の訓練生を集めている。

相撲専修学校の準備は順調に整えられていったが、翌年に力士の地位向上や大日本相撲協会の体質改善を要求した複数の力士が協会を離脱するという春秋園事件が勃発。同事件の対応に追われた大日本相撲協会は相撲専修学校を開校するどころではなくなり、計画は自然消滅した。

「撮影所の街」も目指したが…

さらに、小田急は林間都市に松竹撮影所を誘致することも目論んでいた。当時、松竹撮影所は東京の蒲田区(現・大田区)にあったが、都市化によって町工場が周辺に増え、工場からの騒音によって撮影に支障をきたすようになっていた。そのため、映画関係者は静かに撮影ができる場所を探しており、南林間都市駅に白羽の矢が立った。

実際に、南林間都市駅周辺の公園やテニスコートなどに映画俳優が姿を見せたこともあった。しかし、蒲田から撮影所を誘致することは叶わず、撮影所は神奈川県大船町(現・鎌倉市)へと移転している。

これほどまでに多くの施設を集めようとしたのは、利光が将来的に南林間都市駅周辺を日本の首都にしようとも考えていたからだ。利光が農村然とした一帯に強気な計画を立てていた理由は、関東大震災後に多くの富裕層が都心部から郊外へと居を移したことが大きい。

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