紫式部と藤原道長は「恋愛関係」にあったのか 歴史学者や作家たちの見解を通して分析する

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それに対し、式部は「ただならじとばかり叩く水鶏ゆゑあけてはいかにくやしからまし」と返します。

「この戸1つを、ただ事ではないというくらいの叩き方でしたけれど、本当はつかの間の出来心でしょう。そんな水鶏に戸を開けたら、どんなに後悔することになったでしょう」と返したのでした。

戸を叩いた人物が道長だったとしたら、権勢ある彼が、深夜に戸を必死に叩くものの入れてもらえない光景が目に浮かび、少し笑ってしまいますよね。

なお、寂聴氏は「2回目か3回目には入れてますよね」と言っていますが、道長が式部を2度・3度と訪問したという記述は『紫式部日記』にはありません。

消極的な女性だった紫式部

戸叩きの後日のことも、式部は日記に記しています。

例えば、道長が若宮を抱き、幼子に客人への挨拶を言わせている様子です。

宴が終わり、道長は酒に酔ってしまいました。式部は面倒事に巻き込まれるのが嫌で隠れていましたが、道長に見つかってしまいます。そればかりか「歌を詠め」と要求されるのです。しかし、式部は歌を詠むことはありませんでした。

また式部と、式部と同室だった小少将の君に対し、道長は「お互いに相手の知らない男が逢瀬に来たらどうする?」とまたもやセクハラ発言をします。

式部は道長にどう答えたのかはわかりませんが、日記には「私たちは2人とも、秘密で恋人を作るような水臭いことはないから安心よ」との想いが記されています。

戸叩き事件以降、道長が描写されているのは、これらの光景です。道長と式部の間に何らかの進展があったようには見えません。

式部は日記を読み解けばわかるように、どちらかと言えば消極的な女性です。色恋に生きるというタイプではありません。

ガードが固いといってよいでしょう。賑やか好きの清少納言なら、戸を開けたかもしれませんが、前述のように、式部は戸を開けずに怖がって、部屋で震えていたのです。私は道長と式部の間に恋愛関係はなかったと推測します。

(主要参考・引用文献一覧)
・角田文衞「道長と紫式部」(『古代文化』第14巻3・4号、1965、のち角田文衞著作集7『紫式部の世界』法蔵館、1984年に収録)
・清水好子『紫式部』(岩波書店、1973)
・円地文子『源氏物語私見』(新潮社、1974)
・今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985)
・丸谷才一『ゴシップ的日本語論』(文藝春秋、2004)
・朧谷寿『藤原道長』(ミネルヴァ書房、2007)
・紫式部著、山本淳子翻訳『紫式部日記』(角川学芸出版、2010)
・倉本一宏『紫式部と藤原道長』(講談社、2023)

濱田 浩一郎 歴史学者、作家、評論家

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はまだ こういちろう / Koichiro Hamada

1983年大阪生まれ、兵庫県相生市出身。2006年皇學館大学文学部卒業、2011年皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。専門は日本中世史。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『あの名将たちの狂気の謎』(KADOKAWA)、『北条義時』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)など著書多数
X: https://twitter.com/hamadakoichiro
 

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