だからレッドソックス上原は40歳でも輝ける "雑草魂"を燃やし続けるには何が必要か

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しかも、大体大野球部には専用グランドがなく、附属の浪商野球部が優先され、チーム全体がまとまって練習するのは昼休みの約30分間に限られた状況だ。

勝ち進むたび貧乏に、身に染みた用具の大切さ

チームの遠征費は大半が自己負担で、勝ち進むたびに部員たちは金欠になっていく。上原も夜中の工事現場での警備員、運送業などのアルバイトで活動費を貯めながら野球を続けた。

全日本大学選手権に臨んだ際、宿舎と神宮球場を往復するチームバスのチャーター代を値切ったところ、なんと往復3万円の都営バスが用意されたこともある。中野は「試合にでる選手を優先的に座らせて、あとの部員はつり革につかまって球場に通った」という。

その恵まれなかったチーム内の1人が、後に日本球界を代表するエースにのし上がって、メジャーリーグでも有数の守護神になった上原だ。
 プロから注目されるようになったのは、1997年大学3年で全日本代表メンバー入りしてからだ。

同年6月開催の日米大学野球では1試合14奪三振の大会タイ記録を達成。さらに同年8月インターコンチネンタル杯決勝のキューバ戦に先発。強打者のキンデラン、リナレスらをきりきり舞いさせながら、当時151連勝中で世界一だった〝赤い稲妻〟を斬り、勝利投手となった。

さすがに全日本代表入りした時には、ほとんどのプロ野球チームからマークされるようになったが、試合後、選手たちがスポーツメーカーから支給された手袋、アンダーシャツなどの用具を平気で「ポイ捨て」して帰る光景に驚いた。恵まれない環境に育った上原は「こいつらには絶対に負けない」と闘争心をたぎらせたのだ。

現在、大学で218人の野球部員を預かる監督の中野は「今もうちの選手は折れたバットにクギを打って練習している。どれだけ野球で有名になって、強くなっても、野球用具をおろそかにするやつはうまくなれない。それを大事に使うのも礼儀作法」という。

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