退院後も鼻腔からの哺乳は続き、育休を消化しながら、「これは育児なのか看護なのか」という生活が始まった。そんなある日、中村さんが職場に顔を出すと、事務担当者が言った。
「いつ仕事に復帰されますか?」
「娘がああいう状態ですから、預け先が見つからなくて」
「では、退職の手続きですね」
「えっ?」
そこで初めて、自分は仕事を辞めなければならないということに思い至った。口蓋裂であってもすぐにミルクを自分で飲めるようになる子もいれば、ずっと飲めないままの子もいる。中村さんの二女は後者だった。懸命に預け先を探すも、当時はミルクを自分で飲めない子を受け入れてくれる保育施設は見つからず、退職願を出すほかなかった。
軟口蓋裂を閉じる手術を経て、二女が初めて自分で口から食べ物を食べることができたのは、2歳半の時だった。その後、少しずつ外でもご飯が食べられるようになった。中村さんの心にも余裕が生まれ、幼稚園や保育園に通わせたいと考えるように。その第一歩として、児童デイケア(障害のある子どもを対象に、日常生活の指導や集団生活への適応訓練を行う通所施設)に通わせることにした。
「教える」ってやっぱり楽しい
「あなた、体育の先生だったんでしょう。子どもたちに体操を教えてくれませんか」。ある日、中村さんは二女も通うデイケア施設のスタッフにこんな依頼を受けた。自閉症の子どもたちに運動遊びの時間を作りたいということだった。その間は別のスタッフが二女を見てくれるというので引き受けた。そして感じたのは、やっぱり教えるって楽しいということだった。
外で働くのが難しいなら、自宅で何かを教えることをしたい。この先、もしこの子が外出もできないような状況になったとしても、自宅に人がいっぱい来るという環境を作ることができれば、この子にとってもいいのではないか――。
中村さんがそう考え始めたちょうどその頃、近所に元看護士が運営する託児所ができた。そこに二女を預けて着付け教室に通い始める。すると、思いも寄らない仕事が舞い込んできた。中村さんがほかの生徒にアドバイスする様子が講師の目に留まり、欠員が出ていた小学校の臨時パソコン講師の職を紹介されたのだ。
やってみたい。でも、二女を長時間預けて仕事ができるのだろうか。託児所に相談すると、保育士が背中を押してくれた。「頑張ってお仕事して。応援するよ」
小学生が相手だから、パソコンの操作は難しいことを教えるわけでもない。専門の分野でもない。「それでも再び“先生”という仕事ができてうれしかった」と、中村さん。これが、仕事復帰への第一歩だった。
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