光源氏の内に混在する「亡き人への情」と「浮気心」 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・夕顔⑨

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さて、伊予介(いよのすけ)の家の小君(こぎみ)が参上することもあるが、光君はとくに以前のような言伝(ことづ)てをするわけではない。きっとあの女はもうだめだと、あきらめてしまわれたのだろうと胸を痛めているところへ、光君がお患いになっていると耳にし、女(空蟬(うつせみ))はさらに悲しい気持ちになった。夫とともにいよいよ遠方の地に下るのもさすがに心細く、本当に自分のことはお忘れになったのだろうかと試みに、

「ご病気と伺って心配しておりますが、口に出しては、とても……

問はぬをもなどかと問はでほどふるにいかばかりかは思ひ乱るる
(私からはとてもご様子を伺えませんのを、なぜかとお訊きくださることもなく月日が過ぎます。どんなに私は思い悩んでいることでしょう)

『ねぬなはの苦しかるらむ人よりも我ぞ益田の生けるかひなき(拾遺集/じゅんさいを繰る、苦しいという人よりも私のほうがもっと生きる甲斐もない)』という古歌は、まさにこの私のことでございます」

と、文をしたためた。女のほうから手紙が来るなど、今までにないことだったので、けっして彼女のことを忘れていたわけではない光君は、さっそく返事を書く。

逢おうという気持ちはなかったけれど

「『生きるかひなき』とはどちらのせりふでしょう。

空蟬(うつせみ)の世はうきものと知りにしをまた言(こと)の葉(は)にかかる命よ
(この世はつらいものだと思い知ったのに、またもお言葉にすがって生きようと思ってしまいます)

あなたのお手紙に命をつなぐとは、頼りないことです」

まだ筆を持つ手も震える光君の乱れ書きは、かえっていとしさをそそる手紙となった。

自分の脱ぎ捨てたもぬけの殻の小袿(こうちき)を、光君がまだ忘れていないのだと読み取り、恥ずかしく思いながらも、女は心をときめかせるのだった。逢おうという気持ちはなかったけれど、こうして心をこめた手紙は送る。冷淡で強情な女だと源氏の君に思われたくなかったのである。

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