店主の船越節也さんは鳥取県倉吉市出身。父に連れられて札幌ラーメンの「どさん娘」で食べた、塩バターコーンラーメンがラーメンとの出合いだった。
高校に入ってからさらにラーメンが好きになる。鳥取のラーメンは2000年頃の「B級グルメグランプリ」にエントリーされた頃から「鳥取牛骨ラーメン」と呼ばれるようになった。
その後、音楽の仕事をするために上京し、ライブハウスなどで下積みの仕事をするようになる。
仕事で新宿に行くことが多く、アルタ裏にある熊本ラーメンの「桂花ラーメン」にハマり、多い時は週8回(一日2回行く日もあった)通うほどの常連だった。
それから仕事を転々とする中で、電機メーカーの派遣社員になり、電気店を回る仕事に就いた。各地を廻る仕事だったので、ラーメン本を片手に仕事の合間に食べ歩きをしていたという。
「どこに行っても美味しいラーメン屋があって、どんどん食べ歩きにハマっていきました。
特に好きになったのが『ぜんや』、『春木屋』、『渡なべ』ですね」(船越さん)
32歳でラーメンの世界に
その後しばらくの間は、アミューズメント業界で働き、ラーメンからも遠ざかる。役職につき待遇も良く、生活に不自由はなかったが、手に職をつけないと一生ものの仕事にはならないと思い、「好きなこと」で「手に職」がつけられるものはないかと探し始めた。
船越さんが音楽の次に好きだったものが「ラーメン」。
ぼんやりとラーメンが仕事にならないかと考え始め、好きだった「渡なべ」に応募しようと決意する。当時「渡なべ」は髪型自由・ピアスOKなど、体育会系のイメージが強いラーメン業界の中でも、自由なスタイルが魅力的だった。
しかし当時「渡なべ」はスタッフを募集していなかったので、他のお店の面接を受けたが受からず、ダメ元で「渡なべ」に電話をしてみた。
「この面接で店主の渡辺樹庵さんにお会いし、いろいろな味を作れる渡なべスタイルに魅力を感じそのスキルを学びたい旨を伝えました。
『今はスタッフがいっぱいで入る隙間がないので、またスタッフが足りない時に連絡します』と言われたので、その間はアルバイトでつなぎ、その後『渡なべ』に入ることになりました」(船越さん)
船越さんはこの時すでに32歳。ラーメンの世界に入るにはかなり遅いといえる。
「渡なべ」の現場は大変厳しく、ついて行くのに必死だった。2~3年は怒られっぱなしで、高田馬場の本店から町田の「基 motoi」、神保町の「可以」などグループ内のさまざまなお店を転々とした。
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