「1型糖尿病の息子」のため野球塾つくった父の決断 5歳で発症、右腰のポシェットが命綱

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現在、塾に通ってくる中学生は14人。昨年夏に創設した当時は3人だったが、クチコミで次第に増えており、平日練習にだけ他チーム所属の選手も通っている。小学生も15人。自主練習だから個々の課題でメニューが違う。

例えば取材したこの日は、ある内野手がベース回りでワンバウンド送球を捕球後、走者にタッチに行く動きを徹底的に行っていた。ゲージでは強く投げると変化する軽い特殊ボールで、変化球対応の打ち込みを繰り返していた。細かい課題設定と、自主性を重んじた指導は選手の成長を促し、1年目ながらこの夏の全国大会出場を果たした。

5歳で発症、右腰のポシェットが命綱

創設の大きな理由は長男照(1年)を見守るためだった。照は5歳の時に1型糖尿病を発症した。血糖値をコントロールしながら生活する必要があり、低血糖に陥れば意識を失ってしまう。

池田照は病気の話に触れてもはにかみながらも、笑みを絶やさなかった(写真:日刊スポーツ)

そのため、小学2年生までは母英里さん(47)が授業中も付き添った。今でも夜のチェックのため、両親にはさまれて睡眠している。友達から野球に誘われることもあったが、体育の授業以外、スポーツは医師が許可しなかった。そして、照自身も「みんなに迷惑をかけるかも」と仲間に入らなかった。

ある程度、自分で血糖値のコントロールができるようになった5年生になって、医師の許可も下り、リトルリーグのチームに入った。「楽しいし、難しい。野球はおもしろいし、好きになりました」。

右腰に黒いスマホサイズのポシェットを下げている。体内に注入するインスリンを調節する小型機材が入っていて、手放せない「命綱」だった。ある試合で相手ベンチから「危なくないか?」とポシェットの装着を指摘された。慶さんの説明で理解を得たが、連盟に詳細を説明する時には診断書が求められるなど、親子にはつらいできごとだった。

慶さんは千葉・志学館高時代にエースとして甲子園に出場、東海大でもプレーした。祖父和雄さん(74)は同・習志野高で67年の夏の甲子園準決、決勝で連続本塁打を放ち千葉県勢初優勝に貢献した。照が6年生になったある日、「僕も甲子園に出たい」と口にした。慶さんは困惑した。「5年生になって野球を始めた遅れもありましたし、血糖値コントロールがうまくなったとはいえ、修学旅行に私が同行したぐらい管理は必要です。無理をしない程度に続ける道もあるとは思ったのですが…」。

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