茨城県ひたちなか市に生まれた神田さんは、幼少期を祖父母のもとで暮らしていました。6歳になると、東京の親もとに戻り学校に通うようになります。
「うちの父親はMARCH(明治大学、青山学院大学、立教大学、中央大学、法政大学)の中のとある大学に勤務する法学の研究者で、母親は専業主婦でした。水泳と書道をさせてもらっていましたが、よく友達と公園で野球をしていたことも覚えています」
自身も父親のようにMARCHに入って、教員になろうかなとぼんやり考えていた神田さん。それなりに中学受験の勉強をした彼は、無事出願した九段中等教育学校に合格し、小学校卒業後はそちらに進もうと思っていました。そんな神田さんの運命を大きく変えたのが、小学校6年生の最後の月に起こった東日本大震災だったと言います。
「震災を機に、ドイツへ一時的に拠点を移した父親についていくことになりました。最初は家族で2週間だけ滞在する予定だったのですが、滞在したミュンヘンの環境が良かったこともあり、日本に帰らずにこちらの学校に通うことにしました」
生徒25人に対して、先生は15人
父親の大学の新学期が始まり、父親が日本に帰ってからも母親と現地に住んでミュンヘンの日本人学校に通い始めた神田さん。「中学校全体の生徒数が25人しかいないのに、先生は15人ほどいた」という贅沢とも思える教育環境は、個人の成績を伸ばすには最適であった……はずでした。ただ、神田さんは次第にこの学校の空気に適応できなくなっていったそうです。
「先生方は1人ひとりとても熱心に指導してくださいました。でも、僕には人の目が多い環境が合わなかったんです。僕はいすに座って真面目に授業を受けることが苦手だったので、普通の学校だと見過ごされるようなことも何かと細かく注意されていました」
学校と相性が合わず、中学校の成績も11人中で4位と普通の成績だった神田さん。
悶々とした思いを抱える中で中学3年生になった彼は突然、東京大学を目指す決断をします。その理由は「学校を作る」ためでした。
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