中国不動産王の最期、許家印の「成り上がり」人生 「恒大帝国」の皇帝はなぜ破滅へ向かったのか?

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許家印は1958年に河南省周口市の農村で生まれた。20歳で大学入試に受かり武漢鋼鉄学院(現・武漢科技大学)に入学し、卒業後は河南省の舞陽鉄鋼会社に配属され10年間勤務した。

1992年、許家印は深圳の貿易会社に転職した。2年後、許家印は不動産分野への参入という会社の使命を帯びて広州へ向かった。彼が担当した最初のプロジェクトは1995年に着工した。

中央政府は1996年、不動産を新たな消費と経済成長の牽引役として育成すべきであると提案した。この年38歳だった許家印は恒大不動産を設立。そこから彼の運命の歯車が回り出した。

恒大不動産が開発した最初のプロジェクトは「金碧花園」で、着工からわずか2カ月後の1997年8月に低価格で先行販売を開始し、当時最も有名な「日光盤(即日完売物件)」となった。こうして許家印と恒大は「世間での地位」を確立したのだ。

不動産にとどまらない「野心」

中国の不動産政策に歩調を合わせ恒大は急成長した(写真は恒大集団のウェブサイトより)

彼は後に「同年用地取得、同年建設申請、同年着工、同年完成、同年完売、同年センセーション化、同年入居、同年収益化」という「8つの同年」をまとめた。すなわち、中国の不動産業界で言う「高回転」である。

恒大不動産は急成長し、2004年には中国国内の不動産企業の売上高トップ10入りを果たした。2009年11月5日、恒大は香港証券取引所に上場。許家印は479億香港ドル(当時の為替レートで約5700億円)を手にし、同年中国本土で最も裕福な人物となった。

彼の「野心」はこれだけにとどまらない。

2013年のAFCチャンピオンズリーグ決勝戦では、恒大クラブのユニフォームの胸に「恒大氷泉」の広告を入れ、許家印のミネラルウォーターブランドは瞬く間に人気を博した。その後、恒大は同じような手法を用いて「恒大乳業」と「恒大食用油」を売り出した。

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