今や引く手あまた「あのちゃん」の知られざる一面 テレビやバラエティで活躍、「今年の顔」的存在に

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

“正体不明”という印象は、自身も認めるこの多様性という部分から来るものだろう。他人が定めたひとつのカテゴリーや場所に縛り付けられたくないという強い思い。それがあのという人間を突き動かしているように思える。

最初にふれた、「あのちゃん」ではなく「あの」だという点もそうだ。「あのちゃん」は周囲からの呼び名で、自分から名乗ったものではない。「あのちゃん」と呼ばれること自体が嫌なわけではなく、そこはきちんと区別してほしいということだろう。

二者択一ではなく、ただ一個の多様な存在として生きる

あのが使う「ぼく」という一人称も同様だ。女の子だから「わたし」を使うべきというのは、周囲が決めたこと。自分が一番しっくりくるのが「ぼく」であれば、それでよいということに違いない。それは、二者択一の一方を否定するということとは違う。どちらを選んでもよいということだ。

こうした二者択一の拒絶、選択の自由の主張は、仕事の面でも一貫している。

例えば、アーティストとアイドル。これもどちらかを選ばなければならないわけではない。バラエティ番組ではアイドル的存在でありつつ、音楽では自分で曲もつくるアーティストというように、むしろ両方の面があっていい。

そしてアーティストとしても、ポップさと過激さの両面があって構わない。「ちゅ、多様性。」のようなポップなアニソンとして表現されるものでもよいし、あのがソロ活動と並行して活動しているバンド、I’sのようなパンクロックとして表現されてもよい。

またテレビでのバラエティ出演でも、キャラか素かということはどちらでもよい。「それキャラでやってるんでしょ?」というのはバラエティの定番のいじりではあるが、根本的にはキャラか素かではなく、たとえ時々矛盾する部分があったとしても、すべての言動や振る舞いが「あの」という一個の存在の欠かせない一部なのだ。

「かわいい」と「かっこいい」の二者択一をただ単に拒絶するのではなく、両方を軽やかに行ったり来たりしながら、主張するところはしっかり主張して新しい世界を目指す存在。それが、あのということではないだろうか。

あの自身が経験してきたように、そうすることは生きづらさにもつながりかねない。だがそれでもあののように生きたいと願うひとも少なくないだろう。そこには、まさに「いま」という時代が見える。

太田 省一 社会学者、文筆家

著者をフォローすると、最新記事をメールでお知らせします。右上のボタンからフォローください。

おおた しょういち / Shoichi Ota

東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本社会の関係が研究および著述のメインテーマ。現在は社会学およびメディア論の視点からテレビ番組の歴史、お笑い、アイドル、音楽番組、ドラマなどについて執筆活動を続ける。

著書に『刑事ドラマ名作講義』(星海社新書)、『「笑っていいとも!」とその時代』(集英社新書)、『攻めてるテレ東、愛されるテレ東』(東京大学出版会)、『水谷豊論』『平成テレビジョン・スタディーズ』(いずれも青土社)、『テレビ社会ニッポン』(せりか書房)、『中居正広という生き方』『木村拓哉という生き方』(いずれも青弓社)、『紅白歌合戦と日本人』(筑摩書房)など。

この著者の記事一覧はこちら
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

関連記事
トピックボードAD
ライフの人気記事