千恵が寝起きしていた六畳間には、大病を患った50代をへて、60代から始めた登山で撮影した写真が数多く飾られていた。北アルプスの槍ヶ岳(やりがたけ、国内5位の標高3180m)山頂で、彼女が万歳をする1枚もあった。
その部屋は、千恵の長女で、助産院を営む赤塚庸子が、在宅出産で太一郎を取り上げた部屋でもあった。千恵が幼かった姉妹のワンピースなどを縫ったミシンが今もある。千恵が若い頃は自宅で子供を産むことや、親を看取ることは当たり前の時代だっただろう。
千恵の呼吸がハアハアハアと荒くなった。その左太ももに千恵の後頭部を置いて呼吸を合わせていた太一郎も、千恵の体を両側からさすっていた美春と庸子の姉妹の呼吸も自然と早まっていった。
正月の三が日には逝きたくないと話していた千恵は1月4日午前3時すぎ、望んだ通りに自宅で家族に見守られて旅立った。太一郎はその瞬間を振り返った。
「心の中に渦巻いていた気持ちがバーって出ちゃって、僕、大泣きしちゃったんです。この世にもういないんだっていう寂しさや悲しさ、本当にいろんな感情が入り混じって頭が真っ白で、疲れました。鼻血も出ちゃいましたし……」
「病院は人の死をゆっくりと悼む余裕がない」
庸子が日本看取り士会に母親の看取りを依頼したのは2022年12月上旬。千恵から「今日は(喫茶店に)行きたくない」と言われ、庸子はふいに死期が近いと直感した。実家近くのその店でモーニングを食べるのが、父親が健在だった頃から千恵にとって20年以上の習慣だった。主治医から余命1カ月とも言われていた。
以前から庸子は、日本看取り士会の柴田久美子会長の本を読み、講演会も聴いていた。さらに同会が主催する看取り学講座も一部受講した後での依頼だった。
「助産師という仕事柄、生まれるときは産む人と子どもの、死ぬときは旅立つ人とその家族の意思や尊厳がもっとも尊重されるべきだと思っています。看取り士という仕事もまさにそれだと思い、看取り学を学ぼうとしたんです」(庸子)
他方、身体的な痛みをやわらげる医学的な方法は、看護師で妹の美春とともに熟知していた。だから「自宅で逝きたい」という千恵の望みを、何よりも尊重してあげたいという気持ちが強かった。
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