1915年、日本の高校野球の前身である「全国中等学校野球優勝大会」が始まると、当時東京にあった今の慶應高校に相当する「慶應義塾普通部」は、第1回東京大会で早稲田実業と対戦し4-5で惜敗。しかし第2回は東京大会を勝ち抜き、全国大会に出場。決勝で大阪の市岡中学を6-2で破り全国優勝を果たしている。
日本中に「古豪」と呼ばれる高校は数多いが、107年前の優勝校はとびきりの「古豪」と言えよう。以後も慶應は甲子園の常連校だった。この間、1949年には学校が神奈川県に移転したが、戦後も1962年までは甲子園に出場している。しかしここから40年近くも慶應高は甲子園出場が途絶える。
この間、都市部では「新興私学」が台頭。全国から有望な選手をスカウトし、野球部寮に住まわせて24時間野球漬けにするなど私学ならではの強化、育成システムによって甲子園に進出するようになる。入学の際も「特別枠」を設け、学費免除の特待生など優遇措置もあって優秀な選手が集まるようになった。その代表格が大阪のPL学園高だ。神奈川県でも横浜高や東海大相模高などが台頭した。
野球選手を入試で特別扱いしなかった慶應高
慶應高は「私学」ではあったが、特別枠も野球部寮もない。試験でも有望な野球選手を特別扱いすることもなかった。このために、私学が台頭した1970年代にはかつての強豪の面影は失われ、夏の地方大会では初戦で敗退することも珍しくなくなった。
この事情は大学でも同様で、他の大学が「スポーツ推薦」を積極的に導入するなか、慶應義塾大はスポーツ枠はあったものの入試に合格できなければどんな有望選手でも入学できなかった。1973年、屈指の好投手、作新学院高の江川卓は慶應義塾大を受験したが、不合格。この時は合格発表を見る江川をテレビカメラが追いかけ、大きな話題となった。
このときは学内でも野球好きの教員が「江川卓を慶應に」と大学当局に働きかけたが、かなわなかったという。慶應義塾大学名誉教授で、大リーグの紹介者としても知られる池井優氏は「あのとき、江川が入っていれば」と半世紀前の出来事を今も残念そうに口にする。
この時期には地方大会の下馬評の扱いも小さく、慶應高は「かつての強豪」という扱いになっていた。
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