SNSに夢中な人・距離を置く人で異なる幸福度の差 アメリカの大学で「失敗体験の共有を奨励」する理由

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正直なところ、私はこの人たちの完璧な生活と、完璧とは程遠い自分の生活を比べていました。散らかったままの家、伸び放題の芝生、そして不機嫌な子どもたち。つまり、この家族は完璧な生活をしていて、私の家族はそれに追いつくことは不可能だ、と思ったのです。

翌日、このイベントに参加したことを友人に話すと、その家族のヒストリーについて知っているのかどうかを聞かれました。知らなかった私は、そのとき、ご主人が初婚だったこと、奥様は再婚だったことを知りました。

奥様は、大学卒業の数年後に、学生時代の恋人と初めての結婚をされたそうです。ところが、結婚から1カ月もたたないうちに、そのご主人は、職場があったワールドトレードセンターのノースタワーに飛行機が衝突したことで亡くなられてしまいました(訳注:2001年9月に発生したアメリカ同時多発テロ事件)。亡くなられた最初のご主人は、結婚式の写真を見ることはかなわなかったそうです。

他人の人生について、本当のことは何も知らない

私は、比較することに内在する誤った論理について、重要な教訓を得ました。それは、私たちは、他人の人生について、本当のことは何も知らない、ということです。社会的比較は、他者が提示する、あるいは場合によっては、他者が提示しようとして選んだ、外的な現実に基づいて行われます。

経済学者のセス・スティーヴンス=ダヴィドウィッツは、人々は皿洗いにゴルフの6倍の時間を費やしているけれども、ゴルフに関するツイートは皿洗いに関するツイートのおよそ2倍もある、ということを指摘しています。

同様に、ラスベガスの格安ホテル「サーカス・サーカス」と高級ホテル「ベラージオ」の客室数はほぼ同じですが、フェイスブックでチェックインしたことを報告する人の数は「ベラージオ」のほうが約3倍もあるそうです。

そして、イメージがたとえ印象的であったとしても、私たちは、他人が実際に何を経験しているのかを知ることはできません。

作家チェーホフは、作中でイヴァン・イヴァーヌイチという登場人物に、

「われわれの目につくのは市場へ食料品を買い出しに行ったり、昼は食って、夜はねむったりする連中、たえずとりとめのないことをしゃべったりしながら、結婚して、年をとって、身うちの物が死ねば神妙に墓地へなきがらをはこんで行く連中です。ところが、苦しんでいる者の姿は見ることができない。その声をきくこともできない。この人生のほんとうにおそろしいことがらは、すべてどこか目に見えない舞台うらで行われるのです」

と語らせています(訳注:チェーホフ(著)木村影一・神西清(訳)(1971)チェーホフ、筑摩書房、より引用)。

チェーホフの直感には強い裏付けがあります。

ある一連の研究は、大学生に、ネガティブな出来事(例えば、低い成績をとった、恋愛相手に断られた、など)とポジティブな出来事(例えば、楽しいパーティーに参加した、友人と外出した、など)を、過去2週間のうちに、どれだけ経験したのかを尋ねました。さらに、他の学生が同じような出来事を経験している頻度も推測してもらいました。

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