子育て支援「事業主負担」で賃上げ機運は萎むのか 社会保険活用の「提唱者」権丈教授の寄稿(下)

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子ども・子育て支援に対してワンコインでツーコインという労使折半による新たな再分配制度が創設されるとなると、もちろん、使用者側の負担は増える。これに反対するために、使用者側は最近の賃金引上げのモメンタムに水を差すべきではないと言い続けてきた。

その話を一部のメディアは大いに取り上げていたが、私が日本記者クラブの会見で話していたように(4月26日)、「経済界が払いたくないという話は、今朝も太陽が東から昇りましたというような話であって、何もニュース性はない話」である。これは、誰だからどうだという話ではなく、分配問題というのはそういうものであり、社会保障という再分配政策の形成過程とは、古今東西、政府が使用者側に協力を求め、説得を繰り返していく作業なのである。「第3回こども未来戦略会議」では、次のように話してもいる。

18世紀後半にビスマルク社会保険制度が成立して以降、社会の安定性と発展に貢献する合理性が広く確認されて、社会保険は世界に普及していったわけですけれども、その間、使用者が労使折半を進んで支持した話は聞いたことがありません。

そういう話をしたのは第3回であるが、「第2回こども未来戦略会議」では、これまでと違い、前期高齢者は減少局面に入り、女性の就業率は天井に近い状況になったため、労働力の希少性が高まる「労働力希少社会」に本格的に入ってきており、使用者の負担が多少増えても、賃金引上げのモメンタムに水をさすようなことはないと話している。

ちょうど一昨日、年金局の数理課にこれからの財政検証のあり方について話をしていました。私が言っていたのは、今この国は本格的に労働力希少社会に入ってきたということです。(中略)これからのこの国に参考となるのは、1960年代の経験ではないかと考えているというのを伝えました。
1960年代初め、大企業と中小企業の間の二重労働市場という大きな問題がこの国にはあったわけですが、労働市場が逼迫し始めてきた途端に中小の賃金が上がり始めて、問題が 一気に解決します。
その辺りを東大名誉教授である労働経済学者、隅谷三喜男先生という、かつて存在した社会保障制度審議会会長の言葉を引用しますと、「昭和36年以降、事態は大きく変化した。35、36年頃から顕在化した労働力不足が、とりわけ初任給上昇となって現れ、若年労働者の賃金水準上昇を梃子として、全体的な大幅な賃上げを必然化した。この過程で労働市場の圧迫を強く受けた中小企業のほうが賃上げ幅が大きく、企業規模間の賃金格差は著しく縮小するに至った」と論じられています。
もちろんその間、市場での新陳代謝が進んで、経営者の真の経営力が問われる局面に入っていたわけですけれども、結果として昭和40年代半ばになると、この国は1億総中流社会になりました。
賃金の伸び率を決める一次要因は、どうも労働市場の逼迫度合いであって、経験的には、賃金は、市場が弛緩していたら掛け声をかけても上がらず、逼迫していたら自然に上がるもののようです。(中略)1960年代と今では労働力不足に至った経路が異なりますけれども、この国が本格的に突入したと考えられる労働力希少社会では、(中略)個別の賃金上昇のモメンタムはそう簡単に失われることはないのではないかというようなことを年金局に話しましたということです。

「労働力希少社会」で賃上げは続く

要するに、「『専業主婦の年金3号はお得だ』って誰が言った?」で話しているように、本格的な「労働力希少社会」に入ってきたことを原因として上がっていく賃金の規模と、子育てのために企業に協力を求められることになる額とでは、前者のほうが比較にもならないくらい大きくなる。

そして子ども・子育て支援のための政策は、ずっと不十分で不安定で、全体の整合性がとれているというものではなかった。それは政策の核となる安定財源がなかったからである。

子ども・子育て支援のための安定財源をどのようにして確保するか。そうしたことが、この国の長い間の懸案事項であった。これについては、報告書が承認された「第6回こども未来戦略会議」での発言を紹介しておこう。

前回、子ども・子育て支援の再分配制度を新しく創設すれば、未来の企業、国民全員から感謝されますと話しました。
先週も国家公務員の新人研修に出かけまして、若い彼らには、君たちはオルテガが言う大衆ではない、ル・ボンの言う群衆であってはいけないよと話してきたわけですが、人間に認知バイアスがある限り、国民が圧倒的に支持することは昔からかえって危なく、20年後、30年後に評価される政策は、反対が多いという仮説を持っています。
この会議では、未来の経済・社会システムのためにも労使みんなで、老いも若きも連帯して子ども・子育てを支えるという理念と、この理念を形にするために「賦課対象者の広さを考慮した社会保険の賦課・徴収ルートの活用」と「公費」のミックスがまとめられたわけですが、こうした新しい再分配制度を創設する意義を広く理解してもらうのはなかなか難しいかもしれません。
しかしそれは、今ある介護保険のように、将来感謝される制度が誕生する時の宿命のようなものだと思っています。未来の人たちに評価される歴史的な仕事を、是非やりとげてもらいたいと期待しています。

ほかの財政需要は使うことができない財源調達方法で、子ども・子育て支援を含め、賃金システムの欠陥を補うための消費の平準化システムを完成させる。賃金比例、労使折半の連帯という方法に加えて、後期高齢者医療制度、介護保険の年金からの特別徴収などのツールを用いることにより高齢者を含めた国民みんなによる連帯で、「全世代型で子育て世帯を支える」制度への財源を先取りする。

子ども・子育て支援の安定財源を確保しようとする動きは、向かうべき方向に進んでいるのではないだろうか。

この国は、1955年に財界からの要請で作られた政党が長く与党であり続けた。ところが、ときどき、政治は国の長期的な持続可能性の観点から経済界に協力を求め、それを実現するという、歴史展開のダイナミズムをみせてきた。

確かに、これまでの一連の政策形成過程では、厳しい局面を何度か迎えたようではある。しかしながら、家族依存型福祉国家の形を変え、子ども・子育てに関する消費の平準化を図るために、関係者たちは根気強く努力を続けてきたように見える。そして、これから引き続き期待している。

【上編】社会保険が子ども・子育てを支えるのは無理筋か(7月28日公開)
【中編】「子育て世代に負担を課すと少子化が進む」は誤解(8月1日公開)
権丈 善一 慶應義塾大学商学部教授

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けんじょう よしかず / Yoshikazu Kenjoh

1962年生まれ。2002年から現職。社会保障審議会、社会保障国民会議、社会保障制度改革国民会議委員、社会保障の教育推進に関する検討会座長などを歴任。著書に『再分配政策の政治経済学』シリーズ(1~7)、『ちょっと気になる社会保障 増補版』、『ちょっと気になる医療と介護 増補版』など。

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