「君たちはどう生きるか」に若者が共感する深い訳 吉野源三郎とジョブズが訴える「人生の主体性」

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ストーリーとしては、中学二年生の主人公・本田潤一(コペル君)が、叔父さん(おじさん)との交換ノート(おじさんのノート)による対話を通じて、社会や生きることの意味について考え、人間的に成長していくというものです。

たとえて言うなら、中高生向けに書かれた、ソクラテスの対話篇の現代版という感じでしょうか。ここで言うソクラテスとは、もちろん、おじさんのことです。

「コペル君」というあだ名は、地動説を唱えたコペルニクスから来ています。そこには、天動説のように自分中心にしか物事を考えられない人間にならないようにという、おじさんの思いが込められています。

何事も自分自身で判断すること

コペル君は、次々と難しい問題に直面する中で、おじさんとの対話を深めていきます。

例えば、「家が貧乏な同級生がクラスでいじめにあっていたらどうするか?」という問題です。見て見ぬふりをするのか、それとも助けるのかという。

上級生から「非国民の卵」として目をつけられた友人が鉄拳制裁を受け、それを助けられなかったことで、コペル君が自己嫌悪に陥って寝込んでしまう場面があります。その時に、おじさんは次のように語りかけます。

「人間の本当の値打は、いうまでもなく、その人の着物や住居や食物にあるわけじゃあない。どんなに立派な着物を着、豪勢な邸(やしき)に住んで見たところで、馬鹿な奴は馬鹿な奴、下等な人間は下等な人間で、人間としての値打がそのためにあがりはしないし、高潔な心をもち、立派な見識を持っている人なら、たとえ貧乏していたってやっぱり尊敬すべき偉い人だ。」

「もしも君が、学校でこう教えられ、世間でもそれが立派なこととして通っているからといって、ただそれだけで、いわれたとおりに行動し、教えられたとおりに生きてゆこうとするならば、 ── コペル君、いいか、 ── それじゃあ、君はいつまでたっても一人前の人間になれないんだ。子供のうちはそれでいい。しかし、もう君の年になると、それだけじゃあダメなんだ。」
「肝心なことは、世間の眼よりも何よりも、君自身がまず、人間の立派さがどこにあるか、それを本当に君の魂で知ることだ。そうして、心底から、立派な人間になりたいという気持を起こすことだ。いいことをいいことだとし、悪いことを悪いことだとし、一つ一つ判断をしてゆくときにも、また、君がいいと判断したことをやってゆくときにも、いつでも、君の胸からわき出て来るいきいきとした感情に貫かれていなくてはいけない。」


 こうしたおじさんとの対話を通じて、コペル君はたくさんのことを学んでいくのです。

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