出発地点から目的地までのドア・トゥ・ドアを可能とする自動車やトラックは、人を運ぶにも荷物を運ぶにもすこぶる便利である。
駅から先のアクセスを確保しなければいけない鉄道は、便利さに慣れれば慣れるほど敬遠される。そして、かつては道路交通が苦手としていた高速輸送も、全国に高速道路網が整備されたおかげで十分担えるインフラとなった。
しかし、その結果として、都市部を除いた鉄道は、各地で青息吐息となっている。また、道路のほうも、新たな路線が開通して便利になり渋滞が解消する方向に向かうかというと、さらなるクルマを呼び寄せ、新たな渋滞箇所を発生させる。
渋滞解消の切り札と喧伝されて建設された、首都圏の高速道路を環状に結ぶ外環道や圏央道は、今やそれ自身が渋滞の常態区間になってしまった。
ドライバー不足や地球温暖化は、それ自体も大きな問題であるが、輸送のあり方を見直す「モーダルシフト」につながりつつあるという点で、私たちへの重大な警鐘として受け止めるべきシグナルなのかもしれない。
荷物は「誰か」が運んでいる
かつて日本の鉄道では、大きな荷物を背負った行商人が大都市で商売をするための専用列車が走っていた時期がある。
こうした列車は高度成長期に次第に縮小され、末期には編成の1両だけが行商人たちが乗る専用車に縮小されたが、京成上野駅や当時の国鉄上野駅で降り立つ行商人の姿は、今思えば”貨客混載”であった。
多くは2000年代までに廃止されたが、伊勢方面から大阪へ魚を運ぶ近鉄の「鮮魚列車」は、2020年まで運行され、現在は「伊勢志摩お魚図鑑」という愛称の列車に、1両だけ鮮魚運搬車両が連結されているだけである。
こうしてほぼ消えていった貨客混載のシステムが、ときを経て再び注目されるようになるとは、誰も思わなかったであろう。一方で、高速道路のほうも現在、検討が進められているように、車列を組んで自動運転で大型トラックが連なって走る時代がきそうである。
境港に揚がった新鮮なカニが翌日に大都会で食べられるのも、東京で発刊された本が数日以内に地方の書店に並ぶのも、「誰か」が運んでいるからだ。その「誰か」に思いを巡らし、航空機、鉄道、船舶、そして道路が最適な役割を担い、地球と労働者への優しい環境がくる日を、私たちは迎えることができるだろうか。
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