湘南の交通拠点、大船はなぜ「昭和の面影」が残る? JRやモノレール乗り入れ、だが再開発は進まず
「大船の街を根本的に作り直さなければ」という機運は早い時期から高まりはじめていた。1964年5月に根岸線の桜木町―磯子間が開通すると、いよいよ大船までの延伸が目前という空気が街に広まり、小さな木造駅舎だった大船駅の拡充整備と、ロータリーも設置できないような狭い駅前など駅周辺(東口)の整備が急務となった。当時の大船駅前の様子については、大船で丸安輪業を営んでいた佐々木泰三氏の著書『水の出る街、大船』(かまくら三窓社)に、以下のような描写がある。
駅舎の「横浜市側」移転計画が浮上
地元の人々、とりわけ商店街の人々にとって、最も切実だったのが、大船駅舎の横浜市側への移転問題だった。大船駅はちょうど鎌倉市と横浜市の市境に位置するが、根岸線延伸による利用者の急増が見込まれたことから、思い切って横浜市側(砂押川の北側)の空き地を利用して、駅舎を移転しようという計画が出ていたのである。もし、これが実現すれば、鎌倉市側の商店街は壊滅的な打撃を受けることが容易に想像された。
そこで、1964年7月には、山本正一鎌倉市長(当時)の呼びかけによって「大船駅前整備協議会」が組織される。同協議会は、東京工業大学の石原舜介教授に駅前整備計画案の作成を依頼し、最初の案(第一次石原案)が1966年6月に提示された。しかし、この案に対しては、整備対象が駅前の狭い区域に限定されており、「小さな商店がひしめき合うように建ち並ぶ駅前商店街全体の再編・活性化が望めない」という意見が出されるなどした。
その後は、商店会から石原案とは全く別な独自案が提出されるなどの動きも見られ、国鉄や京急電鉄を含む関係者間の利害を調整しながら、数次にわたって石原教授の修正案が出された。
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