子育てを手伝ってくれる人もいない。夫婦げんかだらけの日々。しかし仕事の来客はやってくる。そして彼は「もう、仕事どころではない。自殺の事ばかり考えている」ようになってしまい、逃げるように酒を飲みに行ってしまうのだった。
ラストシーン、妻と子を家に置いてやってきた飲み屋で、さくらんぼが出てくる。
私の家では、子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無いかもしれない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首飾りのように見えるだろう。
しかし、父は、大皿に盛られた桜桃を、極めてまずそうに食べては種を吐き、食べては種を吐き、食べては種を吐き、そうして心の中で虚勢みたいに呟く言葉は、子供よりも親が大事。
「さくらんぼ」といえば、この時代のぜいたくな果物の代表だった。しかしそんなさくらんぼを、彼は「まずそうに食べては種を吐く」。それは妻と子を置いてきた罪悪感とともに食べる味だったのだ。
太宰の小説の胸に迫る描写
『桜桃』は、もちろんあらすじだけ読めば、クズ男の話だ。育児を放棄し、酒に逃げる男の物語である。しかし一方で、このさくらんぼを食べる描写を読むと、あらすじ以上に胸に迫るものがある。
毎年、桜桃忌には、法要が行われている三鷹市の禅林寺でさくらんぼが供えられる。そのさくらんぼは、想像以上に苦く、小説のなかで描かれていた。まさに家族を蔑ろにしながら小説を書き続けた彼の人生の象徴だったのである。
太宰の代表作『斜陽』において、「自分の幸福も光栄も、生きているうちには決して無い」という文章がつづられている。
今も昔も、太宰の文章に熱狂する若者がいる。生きているのが、悲しくて仕様がない、という言葉だけが救ってくれるものがある。だから今年も、太宰の墓前には、たくさんのさくらんぼが供えられるのだろう。
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