信長が「長篠の戦い後」に家康に下した残虐な命令 両者の関係はどう変化したのか、背景を紐解く

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この逸話からは、親(家康)を想う子(信康)の情愛と、信康の勇気を窺うことができるだろう。

さて、家康は5月末から二俣城(城主は依田信蕃、武田方に仕える)を囲んでいたが、同城はなかなか落ちなかった。しかし、徳川方も5カ所の付城(臨時で築かれる前線基地)を築いて、粘り強く攻めたことから、1575年12月下旬、二俣城は開城する。

武田勝頼は、長篠合戦で大敗しても戦意は喪失していなかった。

「軍役条目」(1575年12月16日)を定めた勝頼はその中で「来年は、尾張・美濃・三河・遠江で、当家の興亡をかけた戦をする。累年の忠節を尽くすのはこの時だ」「鉄砲は重要だ。今後は長柄(柄の長い刀)を減らし、良い足軽を選び、鉄砲を持参するようにせよ」などと述べ、信長・家康と決戦する覚悟と対策を示している。鉄砲を増やすように指示していることは、長篠合戦での敗戦が影響しているのだろう。

一方で、『信長公記』には、長篠合戦直後に「信長公は三河・遠江両国のことを家康公に任された。家康公は長年の心配がなくなって、満足であった」との一文が載っている。同合戦後に家康が遠江の諸城に攻め寄せて、そのいくつかを攻略していることを見ても、長篠合戦の勝利により、武田の脅威が軽減したことがわかるだろう。

信長にとっても東方の脅威が減ったことは喜ばしいことであった。同年8月12日、信長は岐阜から越前に出兵する。越前の一向一揆を鎮圧するためだ。

越前へ侵攻した信長は、敵対する勢力を次々に破り、降伏してきた者を殺し、捕虜となった者「1万2250余り」を小姓に命じて殺させたという。生捕りと殺害された者を合わせると「3、4万」にもなった(『信長公記』)。

越前国に定めた9カ条の掟

9月2日には、北庄に入り、ここに城を築くことを命じる。そして、越前国に国掟(9カ条)を定めた。

それは「国内に不法な課役を申し付けてはならない」「国の警備に置いている侍を、気ままに扱ってはいけない」「裁判は道理が根本である」「京都の公家の領地、此度の争乱以前の知行地は(それぞれ元の所有者に)返還せよ」「越前国の関所を廃止せよ」「越前支配に油断があってはならない。武具や兵糧を備えておけ」「鷹狩りをしてはならない」「2、3カ所は家臣に与えぬ所領を残しておけ。働きに応じて、それらの所領を与えることを示すのだ」

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