信長が「長篠の戦い後」に家康に下した残虐な命令 両者の関係はどう変化したのか、背景を紐解く

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「新しい事態が起こっても、信長の指図に従うことが肝要だ。兎に角、我々を尊崇し、たとえ、後ろ影を見たとしても疎かに思ってはいけない。我々がいる方へ、足を向けぬ心がけが大事である」というものであった。織田方(信長)への服従を強制したのである。

11月に入ると、武田勝頼が、美濃国の岩村城(恵那市)の援軍として、出兵したとの報が入る。信長は、すぐに京都を立ち(11月14日)、昼夜を問わず駆け、岐阜に着く(同月15日)。

同月10日には、岩村城を攻める織田方に武田軍から夜討ちがかけられた。夜襲により、陣を構えていた水晶山から織田は追い払われる。武田軍は岩村城に入り、夜襲の軍勢と共に、織田方を挟撃しようとしたのだ。武田軍の攻勢を食い止めたのは、信長の嫡男・織田信忠だった。

信忠軍は、敵の城兵を城に押し返し、夜討ちに及んだ敵兵を探索、大将21人と、侍1100人余りを成敗したのである。岩村城の城主・秋山虎繁は精魂尽き「一命を助ける」ことを条件に降伏した。

条件付きで降伏したにもかかわらず…

11月21日、秋山虎繁や座光寺、大島氏らは織田軍に御礼に参上したところを、捕縛され、岐阜に連行された。そして、長良川の河原で磔刑に処したのだ。信長が家康に宛てた書状によれば「秋山をおびき寄せ、磔にした後、籠城していた者の首も残らず刎(は)ねた」とある。それにより「近来の鬱憤を散らした」というのだ。

秋山虎繁の妻となっていた信長の叔母も磔にされたという。赦免という条件で降伏したにもかかわらず、殺された秋山氏や城兵たちは哀れである。

11月28日、信長は信忠に家督を譲渡。岐阜城と尾張・美濃国も信忠に譲る。翌年には安土に築城を命じ、2月下旬には安土に移ることになる。

「天下人」としての道を歩む信長から、家康に命令が下る。家康の叔父・水野信元(家康の母・於大の方の異母兄)を殺せというのだ。

水野領の三河国刈谷(刈谷市)や尾張国小川(愛知県東浦町)の者たちが、岩村城の秋山虎繁に物資を提供していたというのがその理由である。織田の重臣・佐久間信盛が信長に讒言(ざんげん)したという。水野信元は12月27日に切腹した(信長の命により家康の手の者に殺されたという説もあれば、家康によって切腹させられたという説もある)。

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