「米中対立」下の日本で考える「中華」と「中国」の今 現代の日中とは異なる視座から見る歴史的展望
このように西方内陸の地域・住民は元来、言語・信仰・習俗、あるいは国さえも異なっていた。ところが今や「一つの中国」の一部である。なればこそ史上も現代も、多くの事件・問題の焦点になってきた。いまなお解決のみえないその様相・内実を、小長谷有紀・小林亮介・熊倉潤がそれぞれの歴史にさかのぼって解説する。
それに対し、中国本土と同じく漢語圏であっても、現在やはり「中華」「中国」に冷淡なのは、香港と台湾である。偶然ではない。大陸の北京政権が「中華」を独占し、「一つの中国」を標榜して、体制・価値観の異なる両者を吸収同化しようとしているからである。
相反する双方のベクトルには、やはりそうなったゆえん・いきさつがあって、それを理解しなくては、現在の「中国」「中華」概念の内実ははかりがたい。そうした機微を昨今の情勢とともに、倉田徹と野嶋剛が懇切に解き明かす。
台湾と目と鼻の先にあるのが沖縄である。いずれもアメリカ軍の関与では共通しており、アメリカの存在を抜きに考えるわけにはいかない。そしてそのアメリカの関与は、はるか19世紀後半、日本の開国といわゆる「琉球処分」にはじまる。日本と「中華」の関わり、ないし相剋は、遅くともここに起源しているのであり、アメリカをふくむ西洋も決して無関係ではなかった。琉球・沖縄をめぐる日・中・米の現代にも通じるせめぎ合いを、ティネッロ・マルコが描き出す。
「琉球処分」は善かれ悪しかれ、日本の近代国家形成の一コマだった。南のコマがあれば北もある。そのプロセスで最も問題になったのが、「小中華」たる朝鮮半島との関係だった。容易にその収拾がつかなかったために、日本は戦争を重ねて最後に敗戦を喫し、現代に至っている。だとすれば朝鮮王朝と対峙した日本の「中華」観・世界観は、現在とも無縁ではありえないし問われなくてはなるまい。石田徹が述べる、「征韓論」として現出した日本の観念のありようは、あらためて考えるべき価値があろう。
「中華」「中国」の意義・影像
「中華」は長い歴史をもち、広汎な範囲に及ぶ。それは往々にして、浅薄な「中華」意識しかもたない日本人には、思いもよらない様相を呈してきた。しかもそれは「中国」を介して、今昔の日本とつながっている。
けっきょく「中華」「中国」の意義・影像を考えることは、日本人が自ら日本を考えるにひとしい。「中華そば」をすすりながら、その向こうにある「中華」と日本と世界を考えてみるひとときがあってもよいだろう。
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