「米中対立」下の日本で考える「中華」と「中国」の今 現代の日中とは異なる視座から見る歴史的展望
「中国」「中華」とは、今も昔も当の中国人の自称であり、両者にほぼ意味の差異はない。日本人の概念とはずいぶん異なる。
「中華」「中国」という名辞・名称すら、十分に理解してこなかった。それが日本人の中国観の現状なのだとすれば、ことはリアルタイムの中国認識にも関わる。現状は知っておく必要があるし、その原因・影響も考えてみなくてはならない。
中国人になぜそう自称するのかを尋ねても、おそらくムダである。かれら自身には、あたりまえのことだから、ことさらその含意・意義を十分に説明してはくれない。いな、当の本人たちもわかっていない可能性もある。
異なる視座から見える「中華」「中国」
それならどうすればよいか。
「中華」「中国」と関わって、その語彙を使うのは、もちろん日本ばかりではない。中国と隣接する国なら、多かれ少なかれ漢語概念の「中華」「中国」を認知したし、また用いてもきた。そのありようが現代日本とまったく同じであるはずはない。
各々の立場・利害に異同があって当然であり、だから「中華」「中国」に対する感覚・認識は、それぞれに多種多様なはずである。逆にそうしたギャップから「中華」の本質に迫ることも不可能ではあるまい。
最新の『アステイオン』98号の特集、「中華の拡散、中華の深化──『中国の夢』の歴史的展望」は、そんな試みである。現代の日中とは異なる視座から見える「中華」「中国」をあつかった論考を集めた。
まずは、他者から「中華」「中国」をみてみよう。
森万佑子は朝鮮近代史の視角から、日・中と最も近隣する朝鮮半島から「中華」を論じる。歴史的に「小中華」の矜恃を持する半島は、そこから対外関係のすべてを築いてきた。それが東アジアのダイナミズム、あるいは危機をも作り上げていて、そこに気づかない日本人は少なくない。
同じく「中華」の濃厚な国は、南方のベトナムであった。牧野元紀はつねに微妙で困難だった中国との関係史をたどりつつ、ベトナムの「中華」を語ってくれる。それは朝鮮半島以上に日本人の知らない世界であって、いまやごく身近になったベトナム人を知るためにも、ベトナムの歴史はもっと注目されてしかるべきだ。
いかに中国・漢民族と隣接していても、以上とはまるで逆に、「中華」がごく希薄なのは、モンゴル・チベットと新疆である。それもそのはず、いずれも史上、言語は非漢語、信仰は非儒教であって、日本・朝鮮半島・ベトナムが漢字圏だったのとは、東西で鮮やかな対照をなしてきた。
しかしみな歴史・現状ともに険しい。モンゴルは独立国家を形成しつつも分断された。チベット仏教を信奉してきたチベットは、首長のダライラマがなお亡命を余儀なくされ、ムスリム住民が多かった新疆は、収容・洗脳にみまがう、周知のような「人権問題」のまっただ中にある。
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