つまりは、問題は家事そのものじゃなくて、肥大化したわれらが欲望なんじゃないだろうか。
もしもわれらの暮らしがもっと質素なものであったなら。必要最低限のものを持ち、必要最低限のものを食べ、必要最低限のスペースで暮らしていたならば、家事はもっとずっと単純で楽なものだったに違いない。毎日同じ基本的な料理を作り、毎日最低限のものを洗い、毎日小さなスペースをホウキでさっと掃くだけで、家の中がちゃんと整うような質素な暮らしをしていたならば、母はもっと長い間、それを無理なくこなし、自分の人生を自分の力で生きているのだ、やるべきことをやっているのだという誇りと充実感を持って暮らすことができたんじゃないだろうか。
「人生100年時代」の大きな宿題
そして、これは認知症という特定の病気に限った問題ではないのだと思う。われらは誰もがいつかは老いて、それまでできていたことが1つひとつできなくなっていくのだ。そんな中で、悲しみや情けなさに押しつぶされることなく、前を向いて最後までどうやって明るく元気に生きていくのかを、懸命に考えなければならないのが「人生100年時代」の大きな宿題ではないか。
そう、母の問題は私の問題でもあった。母は私の老いの先輩であり先生でもあったのだ。私はいったいどうやって老いていけばいいのだろう?
私は自分のこれからの暮らしについて、家事について、改めて考えることになった。
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