【連載第2回:G7広島サミットの焦点】
2023年、日本は議長国として7回目のG7広島サミットを開催することになる。
G7サミットのこれまでの歴史を回顧すると、日本が何度か重要な貢献を行った機会があった。そのひとつが、今から40年前の1983年5月にアメリカで開催されたウィリアムズバーグ・サミットであった。このとき、西側諸国はソ連の挑戦を前に動揺し、米仏間では亀裂が広がっていた。そのようななかで、G7の結束の強化に貢献したのが日本であった。
このときの日本の首相は、中曽根康弘であった。中曽根はそれまでの多くの前任者と異なり「大統領型」の政治指導を目指し、外交においても自らが先頭に立って指導する姿勢を示していた。同時期に首相を務めて中曽根とも親しい関係にあったイギリスのマーガレット・サッチャー首相は、「私が首相を務めていた間に出会った日本の指導者のなかで、おそらく一番、いいたいことをはっきりという『西洋的な』人だったと思う」と回顧している。
米仏間で広がっていた亀裂
ウィリアムズバーグ・サミットでは、アメリカのロナルド・レーガン大統領と、フランスのフランソワ・ミッテラン大統領が激しく衝突し、米仏間の亀裂が広がっていた。軍備増強を進め、ヨーロッパ大陸に中距離核戦力(SS20)を配備しようとしていたソ連に対して、どのように対峙するかが大きな争点となっていた。
このときソ連は、西側同盟に亀裂をもたらし、アメリカを孤立させることを試みていた。西側同盟諸国が結束を強化して、ソ連を包囲することを回避することが重要な戦略目標とされていたのであろう。ここで西側同盟内部では2つの亀裂が広がっていた。
1つは米欧間での亀裂であり、もう1つはヨーロッパとアジアが分断されることであった。ソ連は欧州諸国を宥和する一方で、対ソ強硬姿勢が顕著なアメリカのレーガン大統領を孤立させようとしていた。
同時に、ヨーロッパとアジアを分断させることで西側諸国に揺さぶりをかけ、ソ連のグロムイコ外相はその前年に「SS20の一部を、ソ連の欧州部からアジア部に移転させることができる」と発言していた。この問題にG7としてどのように対応するかが問われていたのである。
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