72歳「余命3カ月」を部活仲間に託した彼の最期 血縁に頼れない時代、誰に看取られるのがいいか
「ない、ない、あるわけないでしょ。そんな、ややこしい過去があったら、いまこうしてパンツ下ろしたり、おむつ替えたりなんてできんわ」
そんなものかと思う半面、過去に何もなかった男性の、下の世話なんてできるものだろうか、と思ったりもした。
血縁に頼れない時代
彼らを見ていると、これからは血縁に頼れない時代なのだと、つくづく思い知らされた。
核家族化が進み、誰にも高齢独居の可能性がある現在、死期の迫った患者の介護をしている人というのは、配偶者や子どもばかりではない。
先にいくつもの例を紹介してきた内縁関係にある人が介護を担うケースはお伝えしたとおりだが、親類でもない者や、子や親族には決して歓迎されてはいない者……。
こんなことを書くと、保守的な人たちから集中砲火を浴びそうだが、私は当事者同士に強い絆があるのならば、そんな内縁関係の誰かが、生い先短い患者の面倒を見ることは、大いに結構なことだと考えている。
不倫も内縁も大歓迎。部活仲間が看取るというケースは多くはないが、部活仲間たちに見送られるなんて、人生の最終末を、青春時代の思い出とともに結ぶようで、実にすがすがしいものに感じる。
死に場所を自由に選びたいと考えること、それと同じように、その瞬間を、誰に寄り添ってもらいたいのかも、もっと旅立つ人の意思が尊重されていい。
件の男性は、がん告知から3カ月を経たある夜、仲間たちに囲まれながら、静かに息を引き取った。
私は死亡診断書を書きながら思った。彼に対して、私たち医療者が果たした役割は、じつに微々たるものだった、と。彼の最期を、わずかでも幸せな時間にしてくれたそのすべては、彼の仲間たちがもたらしたものだった。
死後、彼の遺骨は、仲間たちの手で霞ヶ浦に散骨された。
そこは、高校時代に皆でヨットを浮かべた入江。
半世紀を経て、部活でともに汗を流した水辺は「別れの場所」になり、かつての仲間は葬儀の参列者となったのだ。
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