第二電電設立のそもそもの発想は、日米両国の経済環境の格差に目をつけたところから生まれたものといえます。
かつて、アメリカがくしゃみをすると日本が風邪をひくなどといわれたように、アメリカで起きたことは一定のタイムラグののち日本でも起きるという一種の「法則」がありました。つまり、ある一つの産業が進化、進展していくときの日米両国における時間差。そこに着目したことが、第二電電の成功の背景的要因ともなったわけです。
もっとわかりやすい言い方をすると、ある国で進んでいるビジネスを、それが遅れている国に「輸入」すれば、その成功確率はきわめて高いということ。格差から大きなビジネスチャンスが生まれてくるということです。
もうあと戻りはできない
私が公社を辞めて競争会社をつくろうとしたとき、「おまえは育ててくれた会社に後ろ足で砂をかけていく気か。とんでもない恩知らずだ」と罵倒した人もいました。「公社に盾を突いてうまくいくわけがない。とんだピエロだ」と嘲笑した人もいました。
40年たったいまでも、非難の言葉を口にする人もいます。その点では、私も忸怩たる思いがいまでも消えていません。私が恩ある会社に後ろ足で砂をかけるような行為に出たのは事実であり、そのことへの後ろめたさもあれば、長く世話になり、優秀でよき仲間がたくさんいた組織を離れるさびしさも当時は強くありました。
そして視界必ずしも良好とはいえない未来へ踏み出す不安もないまぜになって、正直、意気揚々とはいきませんでした。
しかし、それらは情緒面のことで、客観的に時代の流れや状況を考えれば、やはり私は決断をしなくてはなりませんでした。ピエロやドン・キホーテは承知で、リスクある一歩をあえて踏み出さなければいけない時期に差しかかっていた。
もうあと戻りはできない──身ぶるいするような思いでお世話になった電電公社を退職したのは、1983年12月のことでした。
翌84年1月、私はすぐに京セラに入社し、東京・八重洲にあった同社の東京八重洲事業所に出社しました。常務取締役情報企画本部長と肩書きこそいかめしいものでしたが、当時の私の内心の不安を可視化したような──狭い応接室を改造したという──机だけがポツンと一つ置かれた小さな部屋が、私の新しいオフィスでした。
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