ライフライン停止、迫り来る火災の中で368人の入院患者を守りきる-東日本大震災、その時、医療機関は《1》気仙沼市立病院
ここから無断で重油を抜き取り、自家発電の燃料に使いました。その後12日深夜に県医療整備課の手配により、8キロリットルの重油が手に入り、15日の通電まで一時的にしのぐことができたのです。燃料会社には無断で抜き取ったことを後日、お詫びしましたが、タンクローリーを残していなくなった運転手は今も行方不明のままです。
もう一つの問題が、迫り来る火災への対処でした。非常用電源を回して電気を供給し続けていたさなかに、市街地を北から南に向けて火災が広がり、病院に近づいてきました。病院から600メートル先には市ガス事業所の天然ガスタンクがあり、火災はガスタンクの400�手前まで近づいてきました。そうした中で、ガスタンク爆発という最悪の事態を想定して、病院全体で避難の決断を迫られることになりました。3月15日、深夜3時のことでした。
--避難のための準備はどのようなものでしたか。
避難は容易ではないことがわかりました。当時、368人の入院患者がいましたが、そのうち一人で歩行可能な患者は101人。これに対して「護送」(介助が必要な患者)は101人、残る166人は担送(担架による搬送)が必要という内容でした。医師、看護師ら病院スタッフや付き添いの家族を合わせてもマンパワーは約200人に過ぎず、どうやって護送および担送患者267人を動かすことができるのか、頭を悩ませました。
当時、市内は火の海でした。市の対策本部には避難するための輸送手段を病院に差し向ける余裕もなく、安全な避難所までには1キロメートルもあるうえ、ずっと坂が続いていました。
院内では患者全員を連れ出すのは困難だという見方が強まりました。担送患者まで手が回らないという見方が出て、意見が分かれました。ですが、最終的にはやるしかないと判断。独立歩行の患者は自分で避難するとともに、次に護送患者をできるだけ少ない職員で連れ出し、最後に担送患者の運び出しを行うという手順を決めました。
--結局、どうなったのでしょうか。
幸運なことに、火は消し止められました。風向きが変わったことに加え、燃えている区画とガスタンクの区画の間に道路と空き地があって、分離帯の役目を果たしていたことで助かった。消防がここで消火に成功しました。当時、消防からは「避難の手助けはできないが、絶対に病院に火が回らないように努力する」と言われていました。そのうえで「それでも無理だということになった場合には、1時間以上前に伝えるから、病院の独力で患者を運び出してくれ」と。