本当の個性は、「圧倒的変態性」のことである 「常識の毒」は、薬に変えられるか?
そもそも、その時代ごとの常識とか規範にピッタリとあてはまる人というのは、実は一人として存在しません。言い換えれば、どんな人にとっても常識というのは窮屈なものなのです。誰にとっても窮屈な「常識なるもの」を、あなたはどのように使いこなすのか。一言で言えば、僕たちが常識について考えるべきことは、これに尽きます。
喩えて言えば、常識というのはこの社会で生きていくための「着ぐるみ」のようなものです。どれほど常識的に見える人であっても、生身の姿でこの社会で生きているわけではありません。その人はおそらく、「地肌」と見間違えてしまうぐらいの「常識という着ぐるみ」を見事に着こなしているだけです。後ろに回れば、きっとチャックがついているし、そのチャックをおろすとその下には、常識からはほど遠い、「その人自身」の姿が顔を見せる。そういうことだと思うのです。
「常識とは着ぐるみである」ということは、知っている人にとっては改めて指摘するまでもない、当たり前の事実です。
驚きのあまり失神してしまうぐらいの「違い」がある
でも世の中には、そのことを知らないまま、常識との折り合いをつけられずに苦しんでいる人がたくさんいます。「自分自身」を無理矢理「常識」の枠組みにあわせようとして、潰れかけている人は、一度、常識というものを「自分」から切り離して、それを演じるようにしてみてください。それだけでも、ずいぶん息苦しさがなくなるはずです。
人間というのは、一人ひとり異なる個性を持って生まれてくる。こう言うと「そんなの知っているよ」という人も少なくないでしょう。でも、「一人ひとりが異なる個性を持っている」という事実は、とんでもなく恐ろしいことなんです。そのことに気づいている人は、とても少ない。
想像してみてください。あなたがふと、家族の机の引き出しを開けたら、そこにロシアのマトリョーシカ人形がギッシリと詰まっているのを発見したら、きっとぞわっと総毛立つような恐ろしさを感じると思うのです。変な喩えですいません。でも、自分がまったく理解も共感もできないような感性を他人の中に発見するのは、それくらい気味の悪い体験なのです。
「ああ、あなたと私は違うね」という程度では済まない、途方もないギャップが他者と自分との間には存在している。それは、互いが互いの本当の姿を知ったら、驚きのあまり失神してしまうぐらいの「違い」なのです。
では、それほどに異なる他人同士が、曲がりなりにもコミュニケーションを取ることができているのはなぜなのか? 実はそれこそが「常識」の機能であり、力なのです。一人ひとりが「常識」という名の着ぐるみを着ているからこそ、互いに大きく異なる人間が、手をつなぐことができる。
これは、人類文明が進化の過程で生み出した、ひとつの発明なのだと思います。もしもこの「常識」という着ぐるみがなければ、世界にあふれる70億の異なる個性は、想像を絶するような混沌を生んでしまうことでしょう。
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