日本で働くフィリピン人女性「幸せを感じる瞬間」 高級レストランやブランド服より大切なもの

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生まれ故郷はマニラ。というと大都会のイメージだけど、「私が生まれたのは50年以上前だからね、マニラにも田舎がありました」。ロウェナさんは昔を思い出す表情でほほえんだ。家の周りには田畑が広がっていて、おてんばだった彼女は外を走りまわって育ったという。

「川に入ったり、木に登ったり、稲刈りのあとの田んぼでも遊んだよ」。ロウェナさんは小さい頃から負けず嫌い。気が強くて、同級生やいとことよく喧嘩をした。一方で、困っている人がいたら助けたいという思いも強かった。

「子どもの頃、なにになりたかったですか?」と聞いたら、ちょっと照れながら答えた。「心理学者」。昔から、友だちの悩みを聞いたり、相談に乗ることが多かった。それで心理カウンセラーみたいな仕事に向いているのかも、という自覚があった。「いまでも、心理学の勉強をしたい気持ちはずっともってるの」。

困っている人たちから話を聞いて、強気で喧嘩する。それこそ組合のリーダーにふさわしい素質ではないか。わたしがそう言うと、ロウェナさんは笑って言った。「アハハ。そうですね。子どもの頃の私を知っている人は、あなたなら労働組合をやりそうねって言うかもしれない」。

家族を助けたい一心で出稼ぎに

父親は小さな印刷屋さんを営んでいた。だが、ロウェナさんが高校生のときに倒産。一家の暮らしは一変した。「貧乏のどん底に入りました」。ロウェナさんはそんな言い方をした。両親の苦労は並大抵ではなく、ロウェナさんも学校を中退して働いた。

「あるとき、お父さんが泣きながら私に言ったの。『もうギブアップしたいけど、ギブアップしたらダメだ』って。あのお父さんの涙はずっと忘れない」。

ロウェナさんは4人きょうだいの3番目。家族を助けたい一心から、海外への出稼ぎを考えるようになる。

フィリピンは世界最大の「労働力の輸出国」だ。アメリカの支配下にあった20世紀初頭はアメリカ本土やハワイへの出稼ぎが盛んだった。1982年にフィリピン政府は海外雇用庁を設立。国の政策として海外での就労が奨励され、在外フィリピン人からの送金がフィリピンの経済成長を支える大きな柱となってきた。現在、在外フィリピン人は1000万人を超す。彼らの祖国への送金額は289億4300万ドル(2018年)で、これは国内総生産(GDP)の約1割に相当する額だ。

「私より上の世代では、サウジアラビアへの出稼ぎが多かった。私たちの頃は日本。バブルだったからね」

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