平井がテーブルを小突き、
「正直、これだけ聞いて、それでも過去に戻りたいって人、ほとんどいないわよ?」
と、楽しそうに言った。いや、実際に平井は二美子を見て楽しんでいる。
「久々に見たわよ、あんたみたいになんの迷いもなく、まっすぐ勘違いして過去に戻りたいんです! って来たお客さん……」
「世の中そんなに都合よくできてないって事よ」
「平井さん」
数が平井をたしなめる。
「世の中そんなに都合よくできてないって事よ、あきらめなさい」
たたみかけるように平井の攻撃は続く。数は再び、
「平井さん」
と、少し強めに言ったが、
「いいの、いいの、こういう事はハッキリ言ってあげたほうが……あら?」
時すでに遅く、二美子の全身からすべての力が抜け、再びテーブルにつっぷしていた。
平井はギャハハと声を出して笑った。
その時、
「コーヒーおかわり」
と、入口に一番近いテーブル席に座り旅行雑誌を広げていた男が数に声をかけた。
「あ、はい……」
カランコロン。
「いらっしゃいませ」
数の声が店内に響くと、女が一人入ってきた。薄水色のバイオワンピースにベージュのカーディガン、紺色のスニーカーに真っ白なトートバッグを持っている。女は色白で目はくりくりと少女のように輝いている。
「ただいま」
「お義姉さん」
数はくりくりした少女のような目の女を「お義姉さん」と呼んだが、従兄の妻なので正確には義理のいとこである。女の名前は時田計。
「桜、散っちゃったね~」
計は言うほど残念ではないのだろう、ニコニコ顔で数に話しかけた。
「ですね」
数はさらりと答えたが、二美子を相手にしているような他人行儀な態度ではなく、なんとなく柔和な表情を見せた。
「おかえり」
言ったのは平井である。二美子をからかう事に飽きたのか、平井は二美子の座るテーブル席から離れ、カウンターに移動しながら計に声をかけた。
「どこ行ってたの?」
平井が聞く。
「病院」
「定期健診?」
「そ」
「今日は顔色いいじゃない?」
「でしょ」
計はテーブルにつっぷしている二美子をチラと見て小首を傾げたが、平井が小さく首を振ったのでそのままカウンター奥の部屋に姿を消した。
カランコロン。
計が奥の部屋に姿を消した後、しばらくしてから大柄の男が入口に頭をぶつけないように大きくかがんで入ってきた。白のコック服の上に薄手のジャンパーをはおり、黒パンツを穿いている。右手にはジャラジャラとたくさん鍵のついた束を持っている。男の名は時田流。この喫茶店のマスターである。
「おかえり」
数が流に声をかけた。流は小さくうなずくと糸のような細い目を入口に一番近いテーブル席に座って雑誌を広げる男に向けた。
数は平井が無言で差し出すコーヒーカップにおかわりを注ぐために、キッチンの奥に姿を消した。平井は片肘をついて流の様子を静かに見つめている。
流は雑誌を広げる男の前に立ち、
「房木さん」
と、優しく声をかけた。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら