「……っていうのが一週間前の出来事です」
と言うと、清川二美子はゆっくり空気の抜ける風船のように、目の前のコーヒーカップを上手く避けながらフニャフニャとテーブルにつっぷした。
それまで、二美子の話を黙って聞いていたウエイトレスとカウンターに座る客が顔を見合わせる。
どうやら、二美子は一週間前にこの喫茶店で起こった出来事を事細かく説明していたらしい。
二美子は高校生の時に独学で六か国語をマスターし、早稲田大学を首席で卒業すると、都内の医療系大手IT会社に入社。二年目にはチーフとして多くのプロジェクトを任されるようになった。いわゆるバリバリのキャリアウーマンというやつである。
この日は仕事帰りなのであろう、白いブラウスに黒のジャケット、パンツと、ありふれたビジネススーツに身を包んでいる。
ただし、見た目はありふれていなかった。アイドルのようにはっきりした目鼻立ちに小さな唇、シュッとした輪郭に天使の輪が光るきれいなセミロングの黒髪。抜群のプロポーションは服の上からでも容易に想像できる。まるでファッション雑誌から抜け出てきたモデルのように誰もが目を見張る美しい女性であった。
才色兼備とはまさに二美子のような女性の事をいうのであろう。ただし、それを二美子自身が自覚しているかどうかは別である。
そんな二美子は仕事一筋で生きてきた。もちろん、これまでにも恋愛をした事がないわけではない。仕事ほどには魅力を感じなかった、それだけである。それほど、二美子は今の仕事に満足していた。
「仕事が恋人」
そう言って、何人もの男性の誘いを塵を払うがごとく断ってきた。
秘密の取引現場
相手の男は賀田多五郎。五郎は大手ではないが二美子と同じ医療関係の会社のシステムエンジニアである。二年前、同じ案件の出向先で二美子と知り合った三歳年下の彼氏である。いや、正確には、「彼氏だった」。
「大事な話がある」と五郎に呼び出された一週間前の二美子は、上品な薄ピンクのミディアムワンピースにベージュのスプリングコート、白いパンプスという姿で待ち合わせ場所に現れた。もちろん道行く男性たちの目を釘付けにした事はいうまでもない。
しかし、五郎とつきあうまで仕事一筋に生きてきた二美子は、スーツ以外の服を持っていなかった。五郎とのデートも仕事帰りが多かったのでなおさらである。
だが「大事な話」は二美子に「特別」を意識させた。二美子は期待に胸をふくらませ、それらの服を買い揃えた。
しかし、待ち合わせをしたなじみの喫茶店には臨時休業の貼り紙がしてあった。その店は各テーブルが個室になっているので「大事な話」をするにはちょうどいいと思っていただけに、二美子の、そして五郎の落胆も大きかった。
仕方がないので、他に適当な場所を探したところ、人気の少ない路地裏に小さな看板が出ているのを見つけた。地下にある喫茶店という事で店内の雰囲気はまったくわからなかったが、店の名前が子供の頃に口ずさんだ歌の歌詞だったのに惹かれ、とりあえず入る事にした。
入ってみて二美子は後悔した。想像以上に狭かったのだ。店内にはカウンターとテーブル席があったが、カウンターには三席、テーブルは二人掛けが三つしかない。つまり九人で満席になる。二美子の期待する「大事な話」はよほどの小声でなければ全部筒抜けである。しかも、数の少ないシェードランプで照らされたセピア色に染まる店内は、二美子の好みではなかった。
秘密の取引現場。
これが二美子が感じたこの喫茶店の第一印象である。二美子は無駄に辺りを警戒しながら、おそるおそる空いていた二人掛けのテーブル席に腰を下ろした。
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