「じゃ、俺、時間なんで……」
歯切れの悪いぼそぼそ声でそう言うと、男はキャリーバッグに手をのばしながら立ち上がった。
「え?」
女は男の顔を見上げて怪訝そうに顔をゆがめた。男の口からは「別れ」の「わ」の字も聞いていない。だが、交際三年目の彼氏に「大事な話がある」と呼び出され、突然、仕事でアメリカに行く事を聞かされた上に、その出発が数時間後となれば「別れ」の「わ」の字を聞かなくても「大事な話」が「別れ話」だと察する事はできる。たとえ「大事な話」を「結婚」と勘違いし、期待していたとしても、である。
「なに?」
男は女の目も見ずにぼそぼそと聞き返した。
「ちゃんと説明してくれる?」
女は、男が一番嫌う詰問口調で迫った。
二人が話している喫茶店は地下なので窓がない。照明器具といえば、天井から吊るされた六つのシェードランプと、入口近くの壁にウォールランプが一つあるだけである。そのため、常にセピア色に染まる店内では昼夜の区別は時計だけが頼りとなる。
そんな店内には年代物の大きな柱時計が三つ。だが、時計の針は三つともそれぞれが異なった時間を指し示している。意図的なのか、壊れているからなのかは初めてこの喫茶店を訪れた客にはわからない。結局は自分の時計で確認することになる。
「私に言わせるつもなの?」
男も例外ではなかった。
男は腕時計で時間を確認すると、右眉の上をかきながら下唇を少し突き出した。
女は男のその表情を見て取ると、
「あ、今、なんだよ、こいつめんどくせーなーって顔した」
と、大げさにふてくされてみせた。
「してない」
男はおどおどと答えるが、
「したでしょ!」
と、取りつく島もない。
「……」
男は再び下唇を突き出すと女から目線を外し、黙ったまま何も答えなかった。
女は男のおびえたような態度にイライラしながら、
「私に言わせるつもりなの? 」
と、目をむいて男をにらみつけ、目の前の冷めたコーヒーに手をのばした。冷めて、ただ甘いだけのコーヒーは女の気分をさらに鬱々と沈めていく。
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