巣鴨に居を構えた歴史的な人物としては、徳川慶喜がいる。もちろん明治になってからの話で、1897年に静岡での謹慎生活を終えて東京へ戻ってきたときにここを選んだ。中山道に面して門があったとのことで、現在も駅前の国道17号(白山通り)沿いに跡地の石碑が建てられている。
ただし、屋敷のすぐ側で豊島線の工事が始まると、これを嫌い、1901年には小石川へ転居してしまう。巣鴨在住はわずか4年ほど。跡地は現在、中低層の商業ビルやマンションが混在する地区となっている。
ただ、地元の商店会では慶喜を地域のシンボルとしている。また、はるか後世、太平洋戦争後のことながら、小石川の屋敷跡のすぐ側には営団地下鉄(当時)丸ノ内線の小石川検車区が建設された。日本で初めて鉄道写真を撮影したのは慶喜ともいわれており、何かと鉄道に縁がある将軍様であった。
映画の街でもあった巣鴨
巣鴨駅前から白山通りを進むと、高岩寺の裏手を通り、都電荒川線の新庚申塚停留所に行き当たる。さらに進むと、都営三田線の西巣鴨駅の入り口が現れ、その側に旧朝日中学校がある。
戦前の無声映画時代、ここには広く知られた大都映画の撮影所があった。白山通りに面したレンガ塀には、前身である河合映画製作社も含めて、1919年から1942年に閉鎖されるまでの歴史をしのぶ、モニュメントが埋め込まれている。
大都映画は徹底した娯楽主義を取り、年100本もの映画を製作した。低コストの、いわゆるB級映画を週に2本のペースという「早撮り」で量産し、安い入場料で公開。観客層はあくまで一般大衆、中でも男女の労働者や子供に置いていた。そのため、厚い支持を背景に、経営は順調であったという。
戦前における日本最大の「映画の街」は巣鴨であったといえるかもしれない。ただ、太平洋戦争が勃発すると他社と合併させられ、大日本映画製作(大映)に統合。巣鴨から映画の火は消えた。当時のフィルムのほとんどは現存していないといわれる。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら