どうも多くの日本人の奉仕の精神は、自分の余力を差し出すというものです。お金もまあまあ、生活に響かない程度に献金するというものです。こういう考え方が日本人には行き渡っています。
ところが世界標準の奉仕の精神は、必ずしもそうではない。自分のいちばん大切なものを差し出すという考え方がある。場合によっては、それは命であるかもしれない。こういう奉仕の精神が、どうも日本人には希薄であるように思うのです。奉仕という言葉には、なにかネガティブな印象を持つ人も多い。戦前の滅私奉公につながる、という議論が必ず出てくるわけです。
戦後の「自己犠牲アレルギー」
私はここのところが、戦前の価値観と戦後の価値観を分ける非常に重要なところだと思っています。そこにクワを入れないと、どうも国際社会におけるリーダーとしての人間力というものが、なかなか出てこないんじゃないかと思います。そこが1つのポイントだと私は思っているんです。
葛西:確かにそうかもしれません。
山折:自己犠牲に対する拒否反応というのは、僕らのあとの世代、特に団塊の世代以降にはものすごくあると思うのですよ。どうも自己犠牲という言葉を使いたがらない。
たとえば、こういうことがありました。宮沢賢治の作品で、自己犠牲をテーマにしたもののお話としては、『グスコーブドリの伝記』というのがあります。あれは最後の場面でブドリが、冷害や飢饉の状況を救済するために犠牲になって、ある科学プロジェクトに参加するという物語です。つまり、最後はプロジェクトの実現のために死ぬわけです。これは、明らかに自己犠牲がテーマだと思うんですね。そして、それが多くの人々の魂を引きつけてきた。
ところが、若い人の最近の解釈によると、あれは自己犠牲じゃない、人間の利他的行動だというのです。これは生物学研究から導き出された言葉ですが、要するに生理学的な現象だと。
幹部教育とは何か。いざとなったら真っ先に死ぬんだぞ、というところまでいくものです。それは死ぬということまで言わなくてもいいけど、命をかけるぐらいのことをしろ、と言っていいわけです。それが、今では軍隊教育そのものと批判を受けるわけです。この自己犠牲へのアレルギーというものをどう考えるか、するかという課題がありそうです。
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