雑踏事故が露わにした韓国社会の「イカゲーム化」 責任逃れしようとする政府と始まった犯人捜し
前述したように、現在は「実行犯」を探す動きと、「システムの不備や不作為」を究明する動きが同時に行われている。今後、特定の個人が「犯人」とされる可能性もある。この場合、政府の責任をどう問うのかが焦点となる。
そして再発防止策も議論されるだろう。実は、今回の事故は「法の死角」で起きたものでもあった。
韓国では1000人以上のイベントが行われる際に、主催者による安全管理措置の計画が規定されているが、梨泰院のハロウィンのイベントには主催者がいなかったため、対策が宙ぶらりんとなっていた。
この空白が事故を生んだとも考えることができることから、補完する法律を早急に作る必要がある。この空白は同時に、遺族が政府(行政)の責任を問えるのかどうかの争点をはらんでもいる。明確な政府の不手際が明らかになる場合、遺家族は政府に対する損害賠償請求ができるという専門家の指摘もある。
大型事故が相次ぐ韓国社会は「安全」なのか
だが何よりも「韓国社会ははたして安全なのか」という問いに政府が答えなければならない。
同様のな問いはセウォル号事件が起きた8年前にも発せられ、OECD諸国でも屈指の多さとなるワーストの労働災害被害が相次いだ続いた文在寅政権の5年間にでも続いたが、残念ながら儚い望みであったことが今回の事件で明らかになった。
日本でも知られるアーティスト、イ・ランがツイートした「生きていることを個々人の運に任せる社会とは」という言葉は、ドラマ「イカゲーム」を彷彿とさせ、危険と隣り合わせの韓国社会の本質を鋭く突いている。
一方で事故を受けて韓国社会でも「あんな危険な場所に行くのが悪い」という「自己責任論」が、事故直後からはびこっている。
しかし、「梨泰院の惨事」は明らかに人災であり、政府は事故直後に責任を回避しようとした。こんな厳しい現実を前に韓国社会は今、「国民を保護する」という政府の役割を求め続け前に進もうとするのか、それとも無力感の中で自己責任論が幅を利かす方向へとなし崩しで変わっていくのか、その大事な分岐点を迎えている。「梨泰院の惨事」が投げかける問いは、あまりにも重い。
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