彼女は自分について語る時には細心の注意を払うようになった。家柄や家族のことを話せないということは、自分が好んで買ったものや、夢中になっている習い事、楽しかった旅行の思い出も話せないということだ。
彼女は同級生たちと話を合わせようと心を縮めて過ごしていたのだ。それも、子どもの頃から、ほんの数年前、30歳を迎える頃までずっと。
「すべてを偽っていたわけではないです。ただ、自分の持ち物や経験の一部を隠したりはしていました。いくつも習い事をしていましたけど、2つくらいしか習っていないことにしたり。大人になってからも、持ち歩くショッパー(お店の紙袋)は庶民的なお店のものを選んで、何度も使い回したり……。
後に番組に出演して、わが家のことが知れ渡った時、中学の同級生はすごく驚いていました。『お金持ちだとは思ってたけど、そんな家だったんだ』と」
自己否定に疲れて故郷に帰った娘に両親は…
モデルを始めたのは、12歳の時。幼い頃から高身長だった彼女は、「将来はモデルさんだね」という周囲の大人の褒め言葉がうれしくて、その道を夢見るようになった。
モデル発掘のオーディションで沖縄代表となり、全国大会にも進出。しかし、そこには、今も活躍する人気モデルたちが名を連ねていて、全国のレベルの高さを思い知らされたという。
モデルとしても硬く閉じた蕾の期間は、長かった。
「オーディションを100回受けても1回選ばれるかどうかでした。モデルは、人と比べられる仕事であることを実感しましたし、あまりにも落とされる経験をすると『自分はダメなんだ』と思うようにもなってしまって……。
さらに、東京で最初に所属した事務所の社長は、モデルに対して否定的な教育をする人でした。あなたはダメだというメッセージを繰り返され、意見を言えば、貶され、怒鳴られ。なぜか私だけ、家柄のことで嫌味を言われたりもして……」
心身ともにボロボロになった彼女は、24歳の時に、その事務所をやめて沖縄に帰ることに決めた。そこまでの人生で最大規模の谷底だ。
途方に暮れていた彼女の心を救ってくれたのは、幼い頃から変わらぬ愛を注ぎ続けてくれる両親だった。
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