「2000年前」から「一帯一路」を実現していた中国 EU誕生のはるか以前に単一市場が誕生していた
ローマ帝国の発展に貢献したのは、オリエントに足場をおくフェニキア人で、彼らのつくった通商国家カルタゴは地中海を1つの商業圏にまとめ、アルファベットを改良してローマに伝えた。ローマは、これらフェニキア人の遺産を帝国経済のプラットフォームとして流用し、「ローマの平和」を築いたといえる。
オリエント文明とローマ文明の両文明を継承したのがイスラーム文明で、8世紀のアッバース朝の時代から15世紀に至るユーラシア世界のプラットフォームはイスラーム教であった。偶像崇拝の禁止を徹底し一体性の強い社会をつくったイスラーム教は、他方で異宗教に寛容で、税金を払えば異教徒でも自由に経済活動ができ、「コーランか、剣か、貢納か」、の3択が許された。イスラーム教をプラットフォームにして経済社会は発展したのである。
中国の台頭と挑戦するヨーロッパ
第2部「中国の台頭と挑戦するヨーロッパ」では、元代までの中国の経済発展と明代以降の物流停滞の歴史が描かれる一方で、中世後半から近代にかけてのヨーロッパの興隆と「ヨーロッパによる逆転の世界史」が扱われる。
中国では、2000年前の秦や漢の時代から、国家主導で「低い手数料」で物流に参加できる社会が実現した。秦の始皇帝による文字や度量衡、貨幣の統一や郡県制の施行など一連の政策や漢の武帝による均輸・平準といった財政政策は、「EUができるはるか以前に単一市場が誕生した」のである。そして、この中華帝国から「シルクロード」が西域へ伸び、「海の道」を利用してローマ皇帝(大秦王安敦)の使節が交易を求めて中国を訪問しているのは、2000年前の「一帯一路」とも言える。国家が経済に介入し、経済成長を促すプラットフォームは、隋の始めた官僚育成装置としての科挙制や南北物流を担う大運河の建設により強固なものとなり、東シナ海から西域、さらにイスラーム世界に連なる経済圏が構築された。
宋の経済発展を受け継いだモンゴル帝国(元)では、駅伝制や交鈔(紙幣)の発行など経済システムが一層整備され、イスラーム世界のネットワークと結合したユーラシア大陸を環流する経済プラットフォームが形成されたのである。
しかし、中国は基本的に国家主導の経済であり、海外貿易ともいえる朝貢貿易体制は、国家の許可なしの船舶の海外渡航は禁じられていた(海禁政策)。そのため、明の鄭和による南海大遠征を最後に、その後の歴史展開の中でアジアとヨーロッパの海運力の差が生まれ、当時の世界最高水準の明の造船技術と航海術は錆び付き、アジア海域に参入してきたヨーロッパ諸国の後塵を拝することになるのである。
一方、「タタールの平和」の時代のヨーロッパ商業圏は、世界的にみると小さなものでしかなかった。しかし、ポルトガルは、アフリカ産の金を直接入手する努力の継続の中で偶然にもインドへの直接航路を発見し、このチャンスを生かしてポルトガルは、「アジア海域世界」へ武力を使いながら、積極的に参入していく。そして、これ以降、オランダ、イギリスと担い手は変わっていくが、ヨーロッパ側がアジア・ヨーロッパ間の物流を確保する機会が多くなり、ヨーロッパの覇権獲得の第一歩となっていくのである。ヨーロッパの船がアジア海域に参入したのに対し、中国の船が地中海の海域に進出したことは一度もなかったのである。
17世紀は「オランダの時代」といわれる。なぜ、この時代のアムステルダムが世界商業の覇権を握れたのか。それは、為替業務を行うアムステルダム振替銀行が設立されたが、都市の宗教的寛容性が確保され、カトリックやプロテスタントだけでなく、ユダヤ人やアルメニア人などのディアスポラが集まり、商業情報の流通や商人ネットワークの構築がなされたことがあげられる。
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