日本人が当たり前に行う「多数決」その重大な欠点 子どもの対話力と決める力を奪っている
子どもたち同士の対話を促す取り組みをしている学校は全国にありますが、最上位目標として「誰一人置き去りにしない状態」を目指しているかどうかで、その学校が民主主義教育をしているかどうか、はっきりわかります。
もし最上位目標を設定しない、もしくは最上位目標で合意していない状態で対話をさせているとしたら、正直かなり無責任なことをしていると感じます。なぜなら、対話によって対立を乗り越えることは、日本では大人もできないのに、子どもならできると考えるのがおかしいからです。
数の暴力ではなく、対話の訓練を
試行錯誤の経験を通して、子どもたちは学んでいきます。ですから、時間がかかります。4年ぐらいの時間をかけて変えることができたものもあります。たとえば麹町中には、伝統行事だった学級対抗の合唱コンクールがありましたが、これは生徒たちが自らなくしたものです。
最上位目標での合意についても、必ずできるはずです。やることは「誰一人置き去りにしない状態」「みんながOKと言える最上位目標」とはどんなことなのかを考えればいいだけですから。たとえばアイデアを大量にリストアップして、「これを実現させたとしたら不利益を被る人はいるだろうか」と、消去法で絞り込んでいってもいいわけです。
そしてそれが決まったら、あとは子どもたちに「この状態を目指して仕組みやルールづくりをみんなでしてごらん」と言えばいいだけです。市民教育の字面だけだと難しそうに見えますが、実はこんなにシンプル。
繰り返しますが、子ども同士の小さなトラブルは、絶好の学びです。解決にいたる筋道だけ教えて、大人はそれ以上、介入しない。なぜなら、学校とは「対話の訓練」をしてもらうための場所だからです。「誰一人置き去りにしない社会って、こうやってつくるんだ!」。その経験と実感を持った子どもが社会にでていくことが、日本を民主的に成熟した国へと成長させる。私はそう確信しています。
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