日本人が当たり前に行う「多数決」その重大な欠点 子どもの対話力と決める力を奪っている
彼らは予想外の言葉に少し驚いたようでした。それから私はこう続けました。
「そうは言っても、いまは3対1の状態だから明らかにA君の分が悪い。だから、少し手を貸すことにするよ。全員に僕から1つだけ確認したいことがある。とても大事なことだからしっかりと答えてほしい。じゃあ、いくよ。君たちは1年生で、この学校であと5年以上(中高一貫校のため)過ごすわけだけど、このいがみあいを5年も続けたいのかい?」
4人の返答はいずれも「いやです」。
私はあえてオーバー気味に反応しながら、こう言いました。
「おお! ということは、君たちはいがみあいをやめたいということで合意したわけだ。でも、いまの様子じゃ、明日以降も続きそうだよね。だって、一方が一方の悪いところを批判しては、反発しあい、また批判する。終わりがないよね。でも君たちは全員一致したよね。明日からいがみあわない生活をしたいって。いがみあいを止めるのは僕じゃないよ。僕にはできない。それができるのは、君たちだよ。じゃあ、どうするのよ?」
すると彼らも、「この問題は自分たちでどうにかしないといけない」と悟ったようで、最終的にA君がお金を返し、もとの関係に戻りました。
子どもたち同士の間で対立が起きたとき、私はこのような形で仲裁をしています。私自身が「裁判官」や「警察官」になることをできるだけ避け、当事者である子どもたち自身に、問題の解決にあたってもらうのです。
多数決=民主主義、という思い込み
なぜ私がこのような手段をとるのか。それは、子どもたちの多様性の中で生きていく力を育てたいからです。そのためにも、「学校を民主主義を教える土台」にする必要があると考えています。
私の考える民主的な社会とは「誰一人置き去りにしない社会」のことです。これは、SDGsの理念でもあります。具体的にいえば、自分の居場所がちゃんとあって、自分らしく生きることができて、意思に反したことを強要されたり権利が不当に侵害されたりすることがない社会。そして、みんな自由だけど、平和的に共存できている社会です。
一方、日本で一般的に認識されている民主主義とは「多数決で物事を決める社会」です。議会制民主主義とほぼ同じ意味。それは本来の民主主義の観点からすればずいぶん低次元の話をしているのではないでしょうか。なぜなら多数決という仕組みは少数派を容赦なく切り捨てる可能性が高いからです。
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