日本人が当たり前に行う「多数決」その重大な欠点 子どもの対話力と決める力を奪っている

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たとえば、文化祭で出し物を決めるとき、最終的にA案とB案が「8:2」で分かれたとします。するとほぼ間違いなく多数決でA案が採用されます。A案を支持した人はうれしいですし、教員も「民主的に解決できてよかったな」と満足げな顔をする。でもそこで置き去りにされるのは、かたくなにA案に反対していた子どもの意思です。

しかも、日本では少数派を切り捨てた揚げ句、「一度みんなで決めたことはやり通せ」と言います。教室では「ダイバーシティーが大切だよ」「マイノリティーの権利を守りましょう」と言っている教員が、罪悪感をいっさい抱くことなくマイノリティーを切り捨てているわけです。

期日内に決めないといけない重要な議題の多い国会運営なら、ずっと対話しているわけにもいかないので、多数決で市民の代表を選び、多数決で議決をとる議会制民主主義という仕組みを採用する。これは仕方がないことだと思います。

でも日本の学校に、そこまで切羽詰まった議題はないはずです。それなのに、いとも簡単に、当たり前のように、多数決で決める。以前、小学校の教員対象の講演を行った際、「先生方は日頃教室で多数決を使っていますか?」と、あえて尋ねてみたことがありますが、なんと一人残らず全員が「イエス」。妥協している感覚すらありません。

対話で子どものアイデアを引き出す

では、実際に学校の現場で、多数決を使わずに、「誰一人置き去りにしない社会」をつくるとはどういうことでしょうか。

たとえば、ある学級で8割の子がダンス派、残りの2割が劇派に分かれたとします。最近はSNSの影響でダンスが人気ですね。一方で「人前で踊るなんて絶対にイヤ!」という子も当然いるわけです。ここで多数決を使ってしまうとそういう子たちが苦痛を感じるだけです。

しかし、麹町中のように「少数派を切り捨ててはダメよ」と普段から教えていれば、答えを見つけるまで対話を続けるしかない。ダンスに決めたら誰が困るのか、劇にすると誰が嫌な思いをするのか。誰の不利益にもならない方法はないのか、と。

すると、ある子どもからアイデアがでてきます。

「ミュージカル風の劇ってどうだろう?」

何幕かの構成にして、ダンスをしたい子はダンスパートで踊り、劇がしたい子は劇のパートで演じ、人前にでたくない子は舞台照明や音響、脚本などの裏方につく。これならみんなやりたいことができて全員楽しめるよね、と。

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