また彼はとても人懐こく、当時、島に越してきた40代の女性が寂しそうに佇んでいるのをみて、「一緒に遊ぼう」と声をかけています。川崎でも中学でバスケットボールクラブに入り、夜の公園で大好きなバスケの練習をしていました。
その時に、あの不良グループも同じ公園でバスケをしていたので、一緒に練習するようになったのが、彼らと知り合うきっかけだったそうです。人懐こい遼太君のことです、年上の人とバスケの練習をするのに、なんの抵抗もなかったと思われます。
大人の世界でやくざな人は、カモにする人にほんのわずかな縁を作るか因縁をつけて近づいて「親しくなり」、食い物にするそうですが、この犯人の不良グループの手口は、それにそっくりです。
この種の問題では取り返しがつかなくなったあとでいつも、「事前に食い止める機会が、何度もあった」と指摘されます。
遼太君はグループからの執拗な虐待を受けており、「殺されるかもしれない」と言っているのを聞いた友人の証言があります。その恐怖は本心だったと思います。周囲の人を巻き込まないよう、そして昼夜懸命に働く親にも心配かけないよう、遼太君は、ほとんどSOSを発信しませんでした。
ですが、本当にSOSを発信していなかったのでしょうか。遼太君は2カ月も学校へ行っていません。大好きなバスケットボールクラブにも行かなくなりました。不良グループと一緒に遊んでいるところを、何人もの人が目撃していますし、激しい暴行のあとの大きなアザを、目の下に作っています。気が付かないはずがないように感じられます。
痛ましいイジメを教訓にしない、無能な大人たち
昨年の春に判決が出た2010年の、桐生市の小学生のイジメによる自死事件では、グループで給食を食べることが決まっているのに、フィリピン人を母にもつ上村明子さんは、ずっと一人で食べていました。それがどれほどの精神的な拷問であるか、家族は何度も担任に訴えましたが、改善されませんでした。
明子さんは、彼女の希望通り転校と引越しが父親と約束されたのに、その日まで待てませんでした。事件後校長は、イジメはなかったと言っています。母親にプレゼントするために編んだマフラーで自死した明子さんに、校長は何も感じなかったのでしょうか
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