追いやられて会社脱出、笠井アナどん底で見た景色 最後「徹子の部屋だけ出たい」にマネージャーは…

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番組が長く続く中で、視聴率が低迷した時期もあった。コーナーのマンネリ化も避けられない。それでも何度かテコ入れを繰り返し、一時は1位まで復活した。

ただ、時間の経過で変化したのは視聴率だけではなかった。

笠井さんが番組で話す時間は、番組開始から約15年間は、20~30分程度あった。しかし、最後の5年間は2分程度まで激減。もちろん、裏方としての仕事はたくさんある。番組の台本を書く。後輩にプレゼンの指導をする。経験してきたからこそできる仕事だ。

しかし、アナウンサーを天職としてきた笠井さんにとって、正直満足できる環境ではなかったと言う。「もう、フジテレビに自分の居場所が無くなってきたんです」。新たな道を考え始めた。

追いやられた中での「脱出」

もちろん、随分前からフリーアナウンサーへ転身するのはどうかと、周りから勧められてはいた。映画を中心とした専門分野の知識も豊富で、社外の仕事も多かった。

しかし、局アナでフリーに転身する人はほぼ40代まで。フジテレビでは定年まで働き続ける先輩が多かった。

笠井信輔
(撮影:今祥雄)

「すぐにフリーにならなかったのは、収入の心配はもちろん、フジテレビアナウンス室の居心地がとてもよかったからです」

最終的に、フジテレビ退職を決めたのは55歳のとき。周りから応援する声もある一方で、「大企業を辞めてもったいない」「あと少しで退職金を満額もらえるのに」とも言われた。

笠井さんをよく知る小倉さんや妻からはともに「5年遅かった」という反応が返って来た。それでも笠井さんはこう語る。

「羽鳥慎一アナや、福澤朗アナのように、ゴールデン番組を持ちながら華々しく辞めるわけではない。追いやられた中で、脱出する感じです。それでも、どこかに自分を必要としてくれる人がいるのではないか。清水の舞台から飛び降りる気持ちで、新たな舵をきる決心をしました」

局アナからフリータレントに転身し、自分の人生をかけると決めた。

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