「日本の鰹」を支えるカタクチイワシ漁師の凄さ 戻り鰹の向こう側、知られざる仕事人の歴史
池田兼男さんは1947(昭和22)年鹿児島県垂水市で7人兄弟の長男として生まれた。父の虎熊さんは地引網でカタクチイワシ漁を行っており、兼男さんは中学卒業後に15歳で漁師の道へ。「兄弟7人おって生活は大変。食事はからいも(サツマイモ)ばかり。働かんことには白米は食べられない」。まだ戦争の影響が残る時代、白米をお腹いっぱい食べることは人々の憧れだった。
垂水市の海潟には県内外を問わず、カタクチイワシを求めてカツオ漁船が出入りして活況を呈していた。しかし、兼男さんの父の船はいわゆる“オンボロ船”。漁の成果を上げて稼ぐためにも、まずは新しい船を手に入れたいと考えるようになった。資金を得るために17歳で名古屋の製鉄所へ出稼ぎに。「一番お金がもらえるところで働かせてください」と頼み込み、溶鉱炉のレンガ貼りの仕事を得る。温度が90℃にもなるような鉄が溶ける場所での作業は過酷を極めたが、塩をなめながら必死で働いた。「頑張らんことにはダメなやと。つらい仕事はなかったな、若い時は」
資金を得て20歳で帰郷。150万円の中古船を購入した。兼男さんは20歳にして初志貫徹して、自分の船を持ったのだった。1967(昭和42)年の民間サラリーマンの年間平均給与が55万円の時代の話だ(参考:『物価の世相100年』)。
設備投資がなぜ重要なのか
カタクチイワシ漁が軌道に乗りいよいよこれからという時、停泊中の中古船の煙突から火が出て船も新調した網も燃えてしまった。苦労して手に入れた中古船との別れ、もう漁をやめようかとさえ思ったが再び立ち上がり地道に努力を重ねていく。その後、都会に出ていた兄弟を1人ずつ呼び戻してさらに規模拡大していった。
1977(昭和52)年には初めて新造船を持つ。船の名は妻の名にちなんで「みゆき丸」と命名。それ以降、1~2年に1度のペースで新造船を作り、2022(令和4)年の現在まで新造した船の数は30隻以上。どこかにいい設備があると聞けばすぐ視察に行き、絶えず設備投資をして漁の成果・効率向上に努めてきた。
「自分がこうして今まで残ったのも設備投資をしてきたから。どんどんいい設備ができてくる。やから設備投資していかんと漁ができなくなってくる。それで業者がやめていく」
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