その答えは、実はとっても簡単だ。Adoの歌声が素晴らしいから。それに尽きるだろう。ご存じない方は、まずは騙されたと思って、『世界のつづき』『ウタカタララバイ』『逆光』の3曲を聴いていただきたい。
Adoの歌声が持つ第1の魅力は、抜群の声量だ。『世界のつづき』の中間部で披露される堂々かつ朗々たる声はどうだ。私は『裸足の季節』『青い珊瑚礁』など、デビュー直後の松田聖子を思い出した。これつまり、かなりの褒め言葉である。
ちなみにこれらの曲の作詞作曲はAdoではなく、それぞれ気鋭の音楽家が手がけていて(『世界のつづき』=折坂悠太、『ウタカタララバイ』=FAKE TYPE.、『逆光』=Vaundy)、このあたりも松任谷由実、細野晴臣、大瀧詠一らの提供曲を歌いこなした80年代の松田聖子と通じるものがある。
続いての魅力は、ボーカリゼーション(発声)の多様さで、こちらは『ウタカタララバイ』に顕著だ。とにかくいろんな声、いろんな歌い方を持っている。「声のデパート」、この言い方が古ければ「声のECサイト」。
地声、裏声(ファルセット)、シャウト、ウィスパー、さらにはラップ、どれをとっても超一流。野球に例えたら、ストレートだけでなく、驚くほど多様な変化球を使い分ける「声のダルビッシュ」のような。
何事も野球に例えがちな私(55歳)の世代が聴いてきた中で比べれば、シンガーとしてのAdoの埋蔵量は、岩崎宏美、吉田美和、島津亜矢らに匹敵すると感じる。もちろんこれも、最大級の褒め言葉のつもりである。
「覆面シンガー」の背景にある環境変化
さて、このAdoは「覆面シンガー」として知られている(実は、今年4月4日のZeppダイバーシティ東京でのライブにおいて「顔出し」をしたとの報道があったが、そのことはひとまず措いておく)。
白状すれば、野球世代の私は、『うっせぇわ』で出てきた頃のAdoを、「覆面シンガー」という点において、少々色眼鏡で見ていた。よくできた「企画物」に見えたのだ。しかし昨年の『踊』を聴いて、いよいよ腰を抜かして、ボーカリストとしての真価に気づいたのだが。
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