戦争の語りを徹底的に懐疑する小説の持つ価値 物語から逃れ、語り得ぬ体験を描いた「ポロポロ」
けっして「きれいな話」にはしない
奥泉 光(以下、奥泉):いまこそ、戦争を考えるために読みたい一冊として、田中小実昌『ポロポロ』(初版1979年、河出文庫、2004年)を挙げたいと思います。平明な文章で書かれてはいるが、これはなかなか難しい小説です。大変面白いんだけども。僕がこのテクストでいちばん注目するのは、物語批判ですね。このことが大きなテーマになっている小説だということです。
加藤 陽子(以下、加藤):なるほど。起承転結のあるきれいな話にはしない、ということですね。
奥泉:ええ。しかし、何かを回想し、語るという行為自体が物語を引き寄せざるをえないんですね。そういう根本的な問題がある。
具体的に見ていきましょう。1945(昭和20)年、下級兵士として揚子江方面の部隊にいる「ぼく」は、8月15日に、戦争に負けたという情報を聞く。「しかし、だれだってそうかもしれないが、ぼくはなんともおもわなかった。くやしいとも、なさけないとも、逆にほっとしたとも、なんともおもわなかった」と主人公は言う。とにかく何も思わなかったのだと。
その続きはこうです。「戦争中、兵隊にとられた者は、これも、だれだって死ぬことを考えたという。だが、ぼくは、死ぬことなんか、ぜんぜん考えなかった。だったら、自分だけは生きてかえってくるとおもったのかというと、そんなこともなにも考えなかった」。「戦争に負けたとなると、だれにでも感慨があり、思い入れもでてくるのかもしれないが、ぼくはなにもおもわなかった」
感慨を抱くことはもちろん、なに一つ思わなかった、ということをくどく言っている。面白いのはそのあと。「よけいなことだが、あのころは、戦争に負けたことへのくやしさ、なさけなさといったものは、上級の兵隊と初年兵とではうんとちがってたはずだが、当時の初年兵に、今たずねたら、上級の兵隊だった者とあまりかわらないことを言うのではないか、それにぶつかったとき、自分が感じたこと、おもったことが、だんだんかたちを変えて、つまりは、世界の規格どおりみたいになるのだろう。これはふしぎなことだが、世間ではあまりふしぎにおもってないようだ。ま、そんなふうだから、こんなことにもなるのか」