戦争の語りを徹底的に懐疑する小説の持つ価値 物語から逃れ、語り得ぬ体験を描いた「ポロポロ」

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奥泉光さん、加藤陽子さんが薦める「いま戦争を考えるための必読本」とは?(写真:Rhetorica/PIXTA)
小説家・奥泉光さんと歴史家・加藤陽子さん。戦争とその物語を知り尽くした2人の対話から、「戦後」も77年になろうとする今こそ、「日本人と戦争」について改めて考えたい――。
必読史料から手記・文芸作品までを読み解きながら展開される対談を収めた『この国の戦争――太平洋戦争をどう読むか』から一部抜粋、2人がとくに推す「いま戦争を考えるための必読本」を3回連載で紹介します。
第1回は、戦争体験を語るとはどういうことなのかを強烈な物語批判とともに考えさせる戦争小説の傑作、田中小実昌『ポロポロ』をめぐる対話をお届けします。

けっして「きれいな話」にはしない

奥泉 光(以下、奥泉):いまこそ、戦争を考えるために読みたい一冊として、田中小実昌『ポロポロ』(初版1979年、河出文庫、2004年)を挙げたいと思います。平明な文章で書かれてはいるが、これはなかなか難しい小説です。大変面白いんだけども。僕がこのテクストでいちばん注目するのは、物語批判ですね。このことが大きなテーマになっている小説だということです。

加藤 陽子(以下、加藤):なるほど。起承転結のあるきれいな話にはしない、ということですね。

奥泉:ええ。しかし、何かを回想し、語るという行為自体が物語を引き寄せざるをえないんですね。そういう根本的な問題がある。

具体的に見ていきましょう。1945(昭和20)年、下級兵士として揚子江方面の部隊にいる「ぼく」は、8月15日に、戦争に負けたという情報を聞く。「しかし、だれだってそうかもしれないが、ぼくはなんともおもわなかった。くやしいとも、なさけないとも、逆にほっとしたとも、なんともおもわなかった」と主人公は言う。とにかく何も思わなかったのだと。

その続きはこうです。「戦争中、兵隊にとられた者は、これも、だれだって死ぬことを考えたという。だが、ぼくは、死ぬことなんか、ぜんぜん考えなかった。だったら、自分だけは生きてかえってくるとおもったのかというと、そんなこともなにも考えなかった」。「戦争に負けたとなると、だれにでも感慨があり、思い入れもでてくるのかもしれないが、ぼくはなにもおもわなかった」

感慨を抱くことはもちろん、なに一つ思わなかった、ということをくどく言っている。面白いのはそのあと。「よけいなことだが、あのころは、戦争に負けたことへのくやしさ、なさけなさといったものは、上級の兵隊と初年兵とではうんとちがってたはずだが、当時の初年兵に、今たずねたら、上級の兵隊だった者とあまりかわらないことを言うのではないか、それにぶつかったとき、自分が感じたこと、おもったことが、だんだんかたちを変えて、つまりは、世界の規格どおりみたいになるのだろう。これはふしぎなことだが、世間ではあまりふしぎにおもってないようだ。ま、そんなふうだから、こんなことにもなるのか」

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