戦争の語りを徹底的に懐疑する小説の持つ価値 物語から逃れ、語り得ぬ体験を描いた「ポロポロ」
加藤:この作品を真ん中に置いて、二十歳のときに沈む戦艦「武蔵」から投げ出されて生還した男性の語り(渡辺清『海の城』)をはじめ、さまざまな生者の語りの戦争文学を位置取りしなおすと、わかりやすい地図が描けそうです。『ポロポロ』は零度の位置を占めるといいますか、これを読んでおけば、さまざまな語りの位置関係がわかるという感じがします。
奥泉:そうですね。いろいろなテクストのもつ虚構性をX線写真みたいに浮かび上がらせてくれる。同時に、物語がはらむ虚偽性から逃れながら、どのように出来事を語るか。語りうるのか。その課題を『ポロポロ』はつきつけてくる。
単一の物語から逃れる方法とは?
加藤:面白いですよね。ただ、同じようなことを奥泉さんも自覚的になさっていますよね。ご自分の作品について語るのは嫌でしょうが、私は『浪漫的な行軍の記録』(初版2002年、『石の来歴・浪漫的な行軍の記録』講談社文芸文庫、2009年)の文体が面白くて、はまりました。
ところどころ、突然、文末が丁寧語になっています。あの語りが面白くて、聞き手の緑川(*)に言っているのか、それとも読者に言っているのか、回想のなかの戦友に言っているのか。「でした」とか可愛らしいんですよ。たとえば、「できない、できない、と思っていても、人間やろうと思えば色々とできるのでした」など。文末に躍動感があります。
奥泉:単一の語りに閉じ込めない工夫でしょうね、自分で言うのもなんですけど。単一の声の語りは、どうしても小説世界を単一の物語に閉じ込めてしまいがちになる。だから語りを多声化することは、小説が物語から逃れる一つの有力な方法です。とはいえ、多声性を獲得するにはどうすればいいのか、答えが簡単にあるわけじゃないんですけどね。
しかし、もし小説というものに戦争体験を扱う意味があるとしたら、このあたりでしょうね。フィクションを武器に多声的に戦争の経験を描くこと。でも、現実にはなかなかそういうふうにはなっていなくて、むしろ単一の物語に叙述を染め上げてしまう小説のほうがはるかに多い。大西巨人はこのことを「俗情との結託」という言い方で批判しています。
(*)「浪漫的な行軍の記録」の登場人物の一人。作家となった「俺」の回想の聞き手。家を訪ねて来ては、「俺」を先生と呼んで話をさせる。黒眼鏡をかけ、カウボーイハットを被り、首に赤いスカーフを巻いた人物として描かれる。
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