戦争の語りを徹底的に懐疑する小説の持つ価値 物語から逃れ、語り得ぬ体験を描いた「ポロポロ」
加藤:奥泉さんの説明を聞いていますと、小実昌さんのすごさがあらためてわかりますね。田中小実昌はいわゆる「遅れてきた青年」でも無頼派でもないけれども、しかし書く人として正直でありたいという意志を、奇跡みたいなかたちで生きている人なんですね。
奥泉:自分が書いたことをすぐさま否定していくような、そういう独自の文体を発明することで、物語から逃れ、語り得ぬ戦争体験を描く、非常に稀有な作品です。
なぜ「ポロポロ」なんだろうか
加藤:表題作の「ポロポロ」も、文庫本で30頁に満たないものですが、やはりこれが表題作だという重みを感じます。
1941(昭和16)年の初冬、太平洋戦争が始まる直前の時期のある夜の祈禱会の話で始まり、だんだんと自らの父の話、母の話をしながら、日本の歴史を振り返るかっこうになっています。廃娼運動のときに父は反対派の右翼に目を潰され、関東大震災のときに父と母は朝鮮人についてデマに踊らされなかった人たちなんだなとわかる。
広島県の軍港都市呉の山の中腹の木立にあった小さな日本家屋。これが小実昌さんの父の教会でした。初冬の晩の祈禱会での人々の祈り、それは他人が聞けば、「ポロポロ」と呟いているようにしか聞こえない。
小説の文を引きますと、「イエスは、十字架にかけられる前の夜、ゲッセマイネ(ルカ福音書ではオリブ山)というところで、切に祈った、と聖書には書いてある。だが、そのとき、イエスは日常はなしていたらしいアラム語での祈りの言葉を述べたのでもなく、ユダヤの祈禱用の言葉を口にしたのでもなくて、ただ、ポロポロやっていたのではないか」となります。日本の近代史の流れと自らの父と母のふるまいがゆっくりと描かれてゆく。このゆっくりした語りに、知らず知らず引き込まれます。天賦の才と思います。
奥泉:「ポロポロ」というのは、新約聖書「使徒行伝」などに出てくる、いわゆる異言なわけで、つまり自分の言葉じゃないんですよね。自己主張では当然なくて、何だかわからない言葉なんですけど、語ることが必ず物語になってしまうという話でいうと、物語化以前の言葉の在処みたいなものを指し示しているとも考えられる。一種の言語以前みたいな。そういう形でしか語れない、というか、示し得ない何かがあるんだ、と。
とはいえ、実際には、たとえば戦争体験は「ポロポロ」では伝わらない。だから誰もが、そういうつもりがなくても、なにかしらの物語性をもって語り、書くしかない。しかしそれは『ポロポロ』の立場からすれば、すべて虚偽なんですね、極端なことを言っちゃうと。