戦争の語りを徹底的に懐疑する小説の持つ価値 物語から逃れ、語り得ぬ体験を描いた「ポロポロ」

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これは戦争の語りに対する根本的な批評ですね。戦争体験というものは膨大で、さまざまあるんだけれど、しかしそれは結局、語られなければ存在できない。しかし語ること自体が、ある一定の型を持たざるをえないものだということの指摘なんです。極端にいえば、型にはまったことしか人は言えないのだと。そこからはみ出る実感とか感覚といったものは語り得ない可能性がある。

自分で記憶を「つくって」しまうことへの抵抗がすごい

奥泉:いま引用したのは、『ポロポロ』に収録されている「北川はぼくに」という短編からなのですが、8月15日に北川という同年兵が、夜、歩哨に立っているときに初年兵を撃ち殺してしまった。その体験を北川から聞いた「ぼく」は、「八月十五日」に強い意味を持たせたくなってしまう。

そこを軸に物語を作りたくなっちゃうんだけど、そんな意味などは一切なかったんだ、ということをただただ書いている小説なんです。『ポロポロ』は全体にそうなんで、要するに人は物語を作りたくなるのだけれど、自分はなるべくそれをしないのだと。

加藤:この自覚があること自体、すごいことですよね。自分で自分の記憶を「つくって」しまうことへの抵抗の意識がすごい。

奥泉:そうなんです。物語については、小説中で直接論じている部分もある。

「だいたい、軍隊というのが物語だ。軍隊とは、いったい、なにか? だれもこたえられはしない。だれもこたえられないものを、軍隊、軍隊と平気で言っていられるのも、物語として通用している軍隊のほかに、いったい、どんな軍隊があるというのか?/軍隊が非合理だとか、いや、逆に、合理をあんまりおしつけるから、非合理みたいなことになるとか、あれこれ言えるのも、物語の上のことだからだ」

「物語は、ひとにはなしてきかせるだけではない。いや、自分自身に、物語ばかりをしゃべりつづけているのが、こまるのだ。自分にとっての……というのも、世間的な雑念がはいらなくて、純粋みたいだけれど、これも、自分自身にはなす物語だろう」

徹底的に懐疑している。しかしこれこそが、まさしく小説的な立場だと言えると思います。物語に身を委ねない。たえず物語というものに批評性をもち続ける精神こそが「文学」の立場だと思うんですよね。しかし一方で、何かを語る、書く、それは必ず物語にならざるをえないという根本的な矛盾の中に、作家は――歴史家もそうだと思いますが――いるんですよ。この問題を捉え、展開しているテクストという意味で、僕はこの小説を評価しているんですね。

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